閉門即是深山 540
菊池寛の遺書・子供に残した言葉
昭和23年3月6日の夜9時15分、自室の洗面所で狭心症のために祖父・菊池寛は、急逝した。59歳だった。私が、父英樹に「お爺ちゃんは、若くして死んだんだね」と言うと、英樹は「あのころは、60歳くらいが平均だったんじゃないかな、別に早かったわけじゃないだろう」そんなことを言った。
私は、昭和21年6月26日生まれである。祖父とのふれあいは、たった2年弱だった。祖父が急逝した時から若い時分まで遡って書いてみたのが、白水社から刊行された『菊池寛急逝の夜』、あまり知られていなかった大映映画(やがて徳間映画となり、現在は角川映画となる)の初代社長を引き受けたのも祖父だった。
「だって、新人小説家の食い扶持のひとつになるじゃないか」昔の映画は、今のテレビやスマホと同じで作家の書く小説をドラマ化する媒体だったのだ。その大映時代を私は、白水社で『菊池寛と大映』と題して書いた。一番最初に上梓したのが、今回“菊池寛の名言集”の土台となったぶんか社から文庫書き下ろしをした『菊池寛のあそび心』だった。
ある日知人が、あんたが書いた“あそび心”がネットで3万円くらいの値が付いてるよと言った。嘘か真か調べていないから“わからん!”“わからへん!”じゃ、その中から抜粋してみるかと思って「菊池寛の名言」として、このブログに長々と書いてみた。菊池寛の遺書は、死後、何日かたって、仕事場にあった金庫から見つかった。父に言わせると、何年かに1回書き直していたらしい!
遺書:
私は、させる才分もなくして、文名を成し、一生を大過なく暮らしました。多幸だつたと思ひます。死去に際し、知人及び多年の読者各位にあつくお禮を申します。
ただ國家の隆昌を祈るのみ。
吉月吉日 菊池 寛
長女瑠美子に宛てた遺書
父なき後は、よく母上の云ひつけを守り、あまりぜいたくをせぬやう心がけられたし。なるべく、職業教育を受け、独立出来るやうせられたし。着實にして真面目なる青年にして、定職ある人と結婚せられたし。
父は、おん身を娘としたることをほこりとす。
長男英樹に宛てた遺書
母上の云ひつけをよく守り、真面目に勉強し、早く職業につかれたし。何事にても、定職あるをよしとす。早く自分の収入にて、独立出来るやう心がけられたし。母上に孝行せられたし。母上ほど、おん身を愛したる人なし。父はおん身を子としたるをほこりとす。何事につけても、お母さんに心配をかけるな。お母さんを、大切にせよ。よく勉強せよ。頑張れよ。青年時代務めると務めざるとは、一生の成否の岐るゝ所、しつかりやれ。二十までが、一番大切だ。勉強すれば、どんな事でも出来る。
次女ナナ子に宛てた遺書
父なき後は、何よりも母上の云ひつけを守り、母上に孝行すべし。少し学問し、何か文学的な事をやりてもよし。