閉門即是深山 531
清少納言
「オヤジはね、西郷隆盛だけじゃなく清少納言もうちの親戚なんだよ!と、俺に言っていたよ」亡き父の言葉である。この“オヤジ”は、私の祖父で文豪といわれた作家だった。
西郷ドンと祖父菊池寛との話は以前書いた。今度は、清少納言か!祖父も自分のルーツを調べていたらしい。祖父の祖先が北条の重臣で秀吉軍、家康軍に攻められ、北条の難攻不落と言われた小田原城が落城した時、北条方の重臣だった祖先の名を探していたと知った時には驚いた。小田原に資料を求めた時、祖父が「うちは、藤原北家だ」と言ったらしい。
最初私は、香川県加茂という地に清少納言の墓、史跡があると聞いたことがあったので、祖父の作り話だろうと思っていた。が、私は、この期に調べてみた。清少納言は、966年頃(康保3年頃)に生まれた。“少納言”は、官職に由来するので、女性に官職名を用いる時は、その父親や夫、親族が務めた場合に限るらしい。清少納言の父は、清原元輔と言った。下級貴族ではあったが、『後撰和歌集』の選者を務めたり、『万葉集』の読解として著名な歌人でもあった。その娘、清、少納言は、歌人で作家、平安時代中期の女房(高位の女官)であり、随筆『枕草子』は清の代表作である。993年頃、一条天皇の皇后、中宮藤原定子の私的な女房として清少納言は仕えたのです。
待てよ、藤原定子は確か資料にあったぞ!藤原北家の系図だ!私の家の祖、中関白藤原道隆の子に藤原定子が!一条天皇の奥さん定子さん!彼女のすぐ下の弟が私の家の祖である藤原隆家さん!あれれれ、道が違うな!藤原定子が親戚だというのだったら判る。どうも、藤原道隆の領地(荘園)が私の祖父の郷里香川金刀羅宮の近くにあったらしい。
しかし、今探しているのは、清少納言との関係だ!祖父の間違えかな、いや小説家がそんな間違いをするとは考え憎い。じゃ、父の間違えか?彼ならあり得る!父には、清少納言と北条定子の名前すら興味がなかったと思います。
清少納言は、強く、博学で、機知を賞賛されてもいた。そして、一条院内裏の北の二の対に、局の位を得たのである。要は、仕えていた一条天皇の正妻が北条定子で、一条天皇の局として清少納言がその席に座った。
一度目の結婚相手は、橘則光という人。大河ドラマ『光る君へ』ではんにゃの金田哲が演じている。ワカメ事件で清少納言に呆れられ離婚。再婚相手、藤原棟世の任国摂津に下った説がある。清少納言は、老後は夫藤原棟世が“月の輪”と呼んだ地に山荘を設けていた。ありました!私の祖父の家系は、藤原鎌足に繋がります。その鎌足の「藤原氏南家」の血族、鎌足から数えて7代あたりでしょうか、藤原保方というお方が居て、その息子さんが清少納言の二番目のご主人藤原棟世さんでした。諸説紛々、清少納言も私の遠い、遠いおばさんらしいのです。
一説によれば、徳島に清少納言の父の領地里浦があり、香川金毘羅宮の近くに定子の父藤原道隆の荘園があったようです!四国の旅のひとつに!