閉門即是深山 517
救急車出動!
もうかれこれ10年近くは経つ。
菊池寛の次女で私を可愛がってくれた叔母のナナ子がひとり暮らしをしていた。祖父の菊池寛が終の住いとして建て家から徒歩10分くらいの場所に、家を借りていたのだ。大正時代、あまり土地を持つ習慣がなかったのだろう。祖父もご多分に漏れず麻布十番から始まり、牛込や本郷区駒込新明町など転々と家を移り住んでいた。この新明町の家が、文春砲で最近騒がれている文藝春秋の創刊の家であった。その後、田端にあった室生犀星の住んでいた家を3か月ばかり仮住まいし、雑司ヶ谷鬼子母神傍のその家を借りて移り住んでいた。後から建てた豪邸の近くの鬼子母神傍の家は、結局91年も借り続け、私の代で貸主に返した。祖父やその家族までは貸すが、その後は返却してくれというのが家主からの要望だった。後9年で100年借りたことになるので、私は心の中で望んでいたが、叶わなかった。叔母と大家との間に取り決めが出来ていたからだった。
この雑司ヶ谷鬼子母神近くの家まで祖父と文藝春秋は、同居していた。たぶん、芥川龍之介が自殺をする前日に祖父に逢いに来た家が、この家である。この家は、雑司ヶ谷墓地に近く、丘陵にぽつりとあったことから金山御殿と呼ばれていた。
私の父も妻を亡くしてから、この家に住んでいた。叔母のナナ子は娘が早逝し、追うように夫も逝ったから、ひとり暮らしだった。そこに私の父が飛び込んだのだ。兄妹が同居していたから、私は安心していた。が、私の父が亡くなった。また、叔母はひとり暮らしに戻った。
ある日、叔母の家に来てくれているヘルパーさんから、私に電話があった。叔母の「家に、人の居る気配が無いので急ぎ来てくれないかと言う。叔母はベッドの横で倒れていた。警官を呼んでいたために、後の面倒は、起こらなかった。警官に促されて119番に何度も電話を入れたのだが「この電話は、現在使われていません」の一点張りだった。後でスマホを見たら、焦ったのだろう118番が画面にずらりと並んでいた。叔母は、救急車に乗せられたが、3年後に亡くなった。
次は私で、江戸川橋の音楽スタジオに通う私は、ある日スタジオ前で猛烈な腹痛に襲われた。堪り兼ねた私は救急車を要請した。「今日、私がいてよかったですね」執刀医が言ったそうだ。42歳のころ私は、胆石で胆のうを取った。5年前のことだった。胆のうを取った30年も前の場所が綻び、そこに別の腸が入り込んだ。死ぬ寸前だったようだ。
やはり今度も江戸川橋で、私の行く月曜日と木曜日にいつもの喫茶店仲間が待っていてくれる。上は、83歳の爺様である。私が着くと、爺様の様子がいつもと違う。訊けば朝食を摂らずに糖尿の注射を打ってしまったらしい。まったく眼の焦点が合っていなかった。救急車を呼んだ。爺さんもひとり者、救急隊に事情を話すと、誰か付いて行って欲しいらしい。丁重に断るしかなかった!