閉門即是深山 514
ジャーナリズムの根源
私には今、若い友人がいる。彼から得た知識が78歳になろうとする私には大切で、時々出会う若き友人に話を聴く努力をする。長く生きても、現在を生きていても、この歳になると「今」が判らない時があるからだ。
若き友人は、現在や今を知っている。過去は、私の方が知識があるように思うのだが、つい「過去の流れ、過去の延長が「今」だと思ってしまうのだ。しかし、それは間違いを起こすことが多い。やはり、今を知ろうとしたら「今」を走っている人の考えを得なければ、過去に縋るだけの老人になってしまう。
いやね、老人は、今の人たちがどんな思いで暮らしているのか知らなくてもいいかも知れない!自分が登ってきた過去という階段だけで、物事を判断しても悪くはないのかも知れない。しかし、78歳でも生きようと思えば、時々「今」を知る必要性を感じることが多くなる。私の若き友人は、嫌がらずに私の「今」に関する好奇心に付き合ってくれるからありがたい!
私は、以前勤めていた出版社の週刊誌が、〇〇砲と最近呼ばれるようになった。そして、今、芸能人ダウンタウンのひとり松本人志氏の問題点を発表連載中である。
アサ芸bizによれば「松本人志に忖度なし…『モーニングショー』の快進撃で思い出されるだろう『テレ朝出禁事件』」とある。また、「デイリー新潮」は、1月15日付で、テレビ朝日の朝の情報番組「羽鳥慎一モーニングショー」が、今年に入ってから視聴率を上げていると書く。その一因は、松本人志の性加害疑惑を同テレビ局は吉本興業と少し間を置いているから、吉本に気を遣う必要が無いから忖度なく放送できる、と言う。
私は、もともと週刊誌は、ひとつの「瓦版」と思っている。「井戸端会議の延長」と思っているのだ。「大上段に構えたジャーナリズムなんて恥ずかしくて言えない存在」だとも思っている。しかし、記者クラブに入ることの出来るジャーナリズムの体たらくを見ると、週刊誌が、ジャーナリズムの代わりをせねばならないのだろう!恥ずかしながらと言うべきか、私も、そのジャーナリストの一員なのだ。若い編集者に会えば、常に「井戸端会議だと言うことを忘れちゃいけないよ」とは、言っているが、ジャーナリズムを失った民主主義では、民主主義国とは言えないのだ。本来の新聞ジャーナリズムや放送ジャーナリズムが心を入れ替えるまでは、「瓦版屋」だってジャーナリズムと呼ばねばならないだろう!
本来『週刊文春』は「瓦版屋」「井戸端会議」である。その社会性の有る無しを判断し、雑誌ジャーナリズムである『月刊文藝春秋』が動くのが、良いと私は、思っている。
話を私の若き友人に戻す。彼に『週刊文春』の「松本人志報道」は、いかがかとテーマにして話してもらった。もちろんほとんどの週刊誌の売れ元はリークによる。彼は、そのリークを嫌っていることが判った。なぜなら、現在、今、一般の中でもリークが多いらしい。
ある正義の基にリークが多くなっていて、他人を、または近くにいるものを信じられない時代にあると言う。それは、一億総子供化時代の始まりの証ではなかろうか?