閉門即是深山 498
山陰鑿道(さくどう)或は洞門
豊後国(今の大分県)に羅漢寺があった。曹洞宗の僧侶禅海がその寺に詣でた時、川に沿っての断崖にかけられた青野渡という桟橋から、よく人馬が落ちるとの話を聞いた。これを憐れんだ禅海は、陸を掘削して道を造ることを思いついた。豊前の国(今の福岡県と大分県の一部)の中津藩主の許可をもらい掘削を始めたのが享保15年(1730年)と言われている。禅海は、九州諸藩の領主や周辺の村民の援助を得て30年後の宝暦13年(1763年)に洞門を完成させたと言う。通行人4文、牛馬8文を通行料とした。この洞門が日本で最古の有料道路だったかも知れない。歌川広重の『六十余州名所図会』に「豊前羅漢寺下道」と題されて、豊前の国の名所として描かれている。
洞門は、青の洞門と呼ばれていた。その名所の景観を守るために福沢諭吉が土地を買い取ったらしい。完成した当時呼ばれていたこの樋田の刳抜(ひだのくりぬき)は、江戸時代末期から大正にかけて「樋田トンネル」とか「青の洞門」と呼ばれるようになっていた。明治39年(1906年)の『耶馬渓案内記:天下第一の名所』が観光案内書として出版されている。
祖父は、これを読んだに違いない!菊池寛は、この逸話を使って大正8年に短編小説『恩讐の彼方に』を発表した。その後『仇討ち以上』として戯曲化している。その後、何回か改作して、今の『恩讐の彼方に』が出来上がった。
今年10月9日に、2019年に人間国宝となった講談師、第三代目神田松鯉さんに高松へ行って頂き一席『恩讐の彼方に』を聴かせて頂けることになった。なぜ、神田松鯉さんにお願いしたかと言えば、何年か前に松鯉さんから電話を頂いたのがきっかけだった。この『恩讐の彼方に』をお弟子さんの稽古に使っていいかとの問いだった。お弟子さんと言えば、テレビでよく見る神田伯山さんもそのひとりなのだ。
菊池寛は、洞門の逸話に“仇討ち”を足したのだ。主人公を禅海和尚にし、若い時の禅海から話を始めた。そして、禅海の名を了海と書き換えた。了海は、禅僧になる前に市九郎と言った。主人の浅草田原町の旗本中川三郎兵衛の愛妾お弓と密通し、手討ちにされそうになる。咄嗟のことだった。市九郎は、主人を斬ってしまったのだ。お弓の手を引いて逃げる市九郎!旗本が使用人に殺されたとなればお家断絶おとり潰しになる。家を守るには、下手人の首を差し出さねばならなかった。旗本の子・中川実之助は、剣の稽古に励み19歳で免許皆伝を果たして市九郎を探した。一方、市九郎はお弓と出奔するが、お弓の人柄の悪さと、自分の犯した罪業に恐れ、お弓と離れて出家をし、法名を了海と名乗った。
ここまでは、猛スピードで祖父の創作部分を書いてきた。さて、了海こと禅海和尚と実之助は、青の洞門で出会うのだが、はたしてその結末は、如何に?ここから先は、人間国宝の講談師に訊いてください!
■特別講演会「パパン、パン、パン!講談で菊池寛を語る 人間国宝 神田松鯉」
(定員に達したため、申込受付は終了されています)