閉門即是深山 411
『月刊文藝春秋1月号』100年記念号本日発売!
昭和12年、祖父菊池寛は東京に来て20数回引っ越しを繰り返しやっと終の棲家を護国寺に近い豊島区雑司ヶ谷一丁目392番地に家を買った。
昭和2年菊池寛は「本誌は過去のことを話すべく、まだあまりに若いと思う。本誌の大事な力点は、まだ将来にあると思う。自分は、いろいろな事情で、今年はあまり雑誌に力を入れることが出来なかったが、来年は更に努力したいと思う。雑誌は、その性質として、進むか退くかの二途である。進まざるものは、必ず退くものだ。その意味でも、不断の精進が必要だ。来年正月には『五周年記念』号を出すつもりだが、それを最初の里程標として、更に百里千里を行くつもりで、奮発したいと思う(昭2・12「雑記」」
祖父が思った以上に文藝春秋は、奮発した。1200冊以上も続いたことになる。
昭和3年5月30日、一介の同人誌だった文藝春秋社は、株式会社になった。祖父は「これで、僕も経営の文藝春秋社が1本立したと言ってもいい」「あらゆる人々に発言の機会を」そして「当事者主義」と「中庸の編集方針」で育った文藝春秋社の根本精神は、菊池寛の思い通り、言葉通り「中正な自由主義の立場であって、知識階級の良心を代表する」雑誌として誕生した。
創刊の辞で菊池寛は「私は、頼まれてものを云ふことに飽いた。自分で、考へてゐることを、読者や編輯者に気兼なしに、自由な心持ちで云つて見たい」という信条に「友人にも私と同感の人々が多いだらう」「私の知つてゐる若い人達には、物が云ひたくて、ウヅウヅしてゐる人が多い」その目的でこの雑誌を発刊した。と、書いている。
大正15年の菊池寛の言葉に「慰楽のみに心を堕せしむることなかれ。学芸のみに心を倦ましむることなかれ。六分の慰楽、四分学芸、これ本誌独特の新天地なり」と編集根本方針、モットーを言った。『文藝春秋』は、『改造』『中央公論』などの先駆的総合誌にはなかった「人間的興味」を関心の核に据えた。その人間的興味の表現にさいし、それまでになかった知的な形式を取り入れた。「誰々さんにものを訊く」、座談会、パロディと、次々に新形式を編出した。事の当事者に訊く「当事者主義」にしても“座談会”にしても菊池寛が造った産物である。
私は、祖父がしたかったことが何とはなしに解る!彼は、東大予科(前・東京帝国大学一高)で芥川龍之介や久米正雄と同級になった。当時、作家として世に出るには、売れっ子作家の目に留まらなければ叶わなかった。芥川や久米は、夏目漱石の後押しによって大学生で文壇にデビュー!自分は、辛酸を舐めた!「才能ある若者が作家として作品に集中してデビューできるため」それまでなかった文学新人賞、芥川龍之介賞・直木三十五賞を創りたかったのだと思う。それを永く続けるためには、牽引していく機関車が必要で、機関車としての役割を文藝春秋に託したのだろう。
今日、12月10日金曜日『月刊文藝春秋1月号』100周年記念号が発売されます。
読者のおかげで、ひとつの雑誌が100年間も続いたわけですが、次の100年の為にも、是非にお求め頂きたいものです。最初の本文頁は、創刊時から変わりのない形式を続けております。記念企画100名の雑文集に、私も依頼を受けました。