閉門即是深山 356
菊池寛の『蘭學事始』
祖父の著作『蘭學事始』は、大正10年11月29日に春陽堂から出版された。『忠直卿行状記』や『恩讐の彼方に』の単行本化の2ヶ月後である。その前年大正9年6月9日から、新聞小説として大好評になった『眞珠夫人』が大阪毎日新聞と東京日日新聞の朝刊で開始された。196回の連載であった。両紙ともこの小説によって新規読者が増え、部数が伸び106万部になったという。菊池寛が雑誌『文藝春秋』を創刊したのが大正12年1月号からであるから、『蘭學事始』を発表したのは、文藝春秋創立の前だった。
杉田玄白の『蘭學事始』は、玄白が晩年(1771年)に書き残した回想録を綴ったものである。町医者杉田玄白は、1733年10月に江戸牛込に生まれ、1817年6月に没しているから、83~4歳と長寿であった。その玄白の回想録『蘭學事始』によれば、当時の蘭学者(オランダ医学)グループの平賀源内や田村元雄、そのグループのひとり中川淳庵がオランダ商館院から借り受けて来たオランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を持って玄白のもとを訪ねた。偶然、同じ書を長崎から持ち帰った前野良沢と共に中川淳庵等と杉田玄白は『ターヘル・アナトミア』を和訳し、1774年に人体解剖図鑑を刊行したのだ。これが、有名な『解体新書』である。この玄白の回想録『蘭學事始』は、後に福沢諭吉によって公刊された。
さて、小説風とは言え、祖父・菊池寛が杉田玄白に興味を持ち、なぜ『蘭學事始』を書いたのか?菊池寛研究者の中でも疑問であったらしい。
つい何年か前に家にあった朽ちた木箱の中に、川端康成が菊池寛の墓石に掘った自筆の筆文字「菊池寛の墓」という書が入っていた。あまりにも汚い木箱だったから私は、中も見ずに捨てようとした。待てよ!蓋を開けると川端氏の筆文字の下に古びた巻物や黄ばんだ紙々がいっぱい入っている。そのまま高松の菊池寛記念館に送ってしまえ~ィ!我ながら良い考えだと満悦していた!その巻物の一巻の中に杉田玄白が菊池寛のひい、ひい爺さんに当たる菊池縄武(儒者の号 守拙・萬年)に宛てた別離の手紙が入っていたのだ。
菊池一族は藤原武士で菊池の名を継ぎ、安土桃山時代に刀を置き、儒教朱子学の学者になった。その流れを汲む萬年は、四国高松から四年間学問の為に江戸出たのである。
江戸から高松に帰郷する萬年宛杉田玄白の別離の手紙を英明高校の田山先生が現代用語にして下さった。
●柳の枝を折って菊池守拙(萬年)君の帰郷を送る詩 杉田玄白
送別の宴の酒の酔いがまわってきた。店の前に植えられた柳の木にのぼって枝を折り取り、菊池君への餞別としよう。
誰が吹くのか寂しそうな笛の音がきこえる。風が渦をまき、落葉を舞い落している。
菊池君との別れは悲しい。今すぐ誰か彼と私の孤独を慰めてくれ。むなしさが募るばかりで終わりがない。私は別離の悲哀に声を上げて泣くばかりである。
こんな寂しいが、愛情溢れる家宝の手紙を親から継がれたら、どんな作家も『蘭學事始』を、そりゃ、書くよね、こんな良い資料など無いモノ!ひとつ疑問が解けました!