閉門即是深山 328
むかし
テレビでは、築地から市場を豊洲に移転させる時に味噌を付けてしまった東京オリンピックのすったもんだの後、影を潜めていた都知事が息を吹き返したように出づっぱりで、土日の外出自粛を都民に向けてお願いしていた。
世間は、朝から晩まで新型コロナウイルスのニュースで、医者や感染症専門家より知識が上になったと思われた頃だった。夜、ふらりと私の住むマンションを出て、東京湾に沿う道を散歩した。
普段なら、隅田川を下り、海に出てくる提灯舟、屋形船の行き交う東京湾に一艘の舟も無い。目の前にあるレインボーブリッジも明かりが灯っている様子も無い。幾つか並んで掛かる橋橋を行き交う自動車も極端に少ない。お台場のフジテレビの方角に見えるはずの観覧車も、ライトを消しているのか真っ暗である。空には、普段ならば羽田に発着する飛行機が、まだこの時間ならばひっきりなしのはずだが、まったくと言えるほどに無い。人けが、少ない。観光用のヘリコプターが、何機も上空を廻っているはずが、これも無い。
私は、スマホに好きな曲や、自分が所属するバンドの曲、ジャズドラムで練習する曲を何百曲も入れてある。ブルートゥースではなく、イヤーホーンを耳に付け、その上に家人が縫ってつくってくれた心地良いマスクを耳にかけ、演歌やムード歌謡を聞きながら、そんな海を眺めていた。気分は、ポップスやジャズでは無い。眼に入る景色の全体が、なにか暗い!世間がコロナで大騒ぎしているからかも知れなかった。
立っている場所から西を見ると海を通して左手にお台場、正面は、浜離宮などがある港区、東京タワーが見える。左手は、月島や佃島を越えて、東京駅の大丸あたり、ちょっと首をひねるとスカイツリーも見えるのだが、暗い。背中の東側には、まるで小さなマンハッタンようなビル群だが、暗い!東の空に月が昇っていく。西の空には、宵の明星が妙に明るく輝いている。イヤーホーンから流れる曲のせいかも知れないが、私の子供の頃の東京は、こんなだった気がする。
ウイルスでの死は嫌だなと思う。しかし、知らずにウイルスに感染していて、愛する人たちに感染させるのは、もっと嫌だ。しかし、コロナさえ考えなければ、私の眼に映る光景は、とても素晴らしい。日本らしい。日本中同じような都市になり、世界中が同じようになった今、むかしの東京が懐かしい。今より、もっと個性的で素敵だった。
電車に乗れば、継ぎ接ぎのあるスーツに、すり減った父親の形見のような仕事鞄を手にしたサラリーマンが多かった。皆がそうだった。デパートも全て6時にはシャッターを閉めていた。商店街だって、7時頃には、半分カーテンを閉めて、奥で一家団欒の食事をちゃぶ台で摂っていて、買い忘れた醤油や味噌など「おばちゃん、醤油おくれ!」なんて半分閉めた黄ばんだカーテンの下から覗くと「はい、はい、ちょっと待っておくれよ!」と割烹着で手をふきながら「いつものね!はい」と言って、棚から出して、何か布で拭きながら渡してくれたものだった。戦争はあったけど、原子炉爆発も未知のウイルスも無かった。それに、人の心も今より綺麗だった気がする。
【お知らせ】
ラジオ日本『千花有黄の道いろいろ』(毎週月曜日21時(夜9時)~30分)にゲストとして呼ばれました。
放送日は、次の通りです(ゲストコーナー およそ10分)。
・4月20日(月)(放送済)
・4月27日(月)
・5月 4日(月)
3週にわたって出演します。よろしければ、お聴きくださいね。