祖・藤原氏 | honya.jp

閉門即是深山 312

祖・藤原氏

この原稿が掲載される日、12月26日は、祖父・菊池寛の誕生日にあたる。もし、生きていたら131歳の翁の歳だ。

菊池寛は、小説家・戯曲家で多くの作品を残している。『無名作家の日記』『恩讐の彼方に』『父帰る』『忠直卿行状記』『真珠夫人』『入れ札』『藤十郎の戀』『屋上の狂人』等と、長篇、短篇、戯曲を足して326作品、その中に『三人の兄弟』や『不思議な話』などの子供向けの話もある。数には入れなかったが『ジャングルブック』『小公女』『家なき子』『小公子』『ロビンソン漂流記』『青い鳥』『フランダースの犬』『アリス物語』『ピーターパン』といったイソップ、グリム、アンデルセン、アラビアンナイトなどの子供向け童話も一生懸命に翻訳、出版をしていた。エッセイや雑記を入れるととんでもない数である。ほとんどの読者は、芥川龍之介賞や直木三十五賞、菊池寛賞の生みの親で、文藝春秋を創ったり日本文藝家協会を創った人、大映の初代社長と思っているやも知れないが、実は全てが作家として後輩作家に良かれと考えた作家であった。

明治21年12月26日、彼は、高松の現天神前、香川県香川郡七番町六番戸で生まれた。菊池の名の由来は、熊本県菊池市にある。中国の「三国志」の中の「魏志倭人伝」には、女王卑弥呼に唯一従わなかった国の皇、卑弥弓呼の官ククチヒク(菊池 彦)が住み着いた所に、藤原内臣内大臣鎌足、右大臣淡海公不比等から12代後の太政大臣藤原道長、大納言藤原道綱、右大臣藤原道兼、の弟摂政内大臣藤原道隆が入った。その道隆を祖とする。
道隆の子、内大臣藤原伊周の弟に藤原隆家がいた。隆家は、8人の男子と2人の女子が子供としていた。5番目の肥前守藤原基定は、政則の幼名である。政則は、肥後熊本の鞠智城に入った。この代になり藤原菊池と名乗ったのだ。政則の子は、西郷政隆、小島保隆、兵藤経隆、合志経明がいた。長男の西郷政隆は、西郷ドンの祖である。菊池は、三男の兵頭経隆が継いだ。
菊池一族には、11の分家・支流姓がある。肥後、西郷、豊田、八代、城、大河平、宇土、赤星、志岐、甲斐、米良がそれだ。家紋は、武家であったから鷹直羽、並びに、並び鷹羽。いつのころだろうか、私の家では違い鷹羽を使っている。これを書いたのも、今、若い人たちの間で家紋ブームが起きていると聞いたからだ。
一族は、勤皇武士であった。最初平家に、次に源氏に、そして北条に就いた。浮気性では無い。天皇をお守りする武家だったからだ。北条の時代、北条氏直に就いた菊池武茂は、氏直が太閤秀吉とその家臣家康によって討たれ、北条没後に高野山で剃髪して、武士を捨てた。そして、儒教朱子学の博士となっていく。明治維新で、民主化していく日本で悲劇にあったのは、城勤めの武士や役人たちであったに違いない。生活が大きく変わったのだ!天国と地獄がひっくり返ってしまった。ちょうどそのころ祖父は産まれた。菊池寛の貧乏話は、そこから始まる!

読者の皆様へ、今年も私の雑文を読んで頂き有難う御座いました。この号で、このブログも7年近くになります。毎週欠かさずよく書いてきたなぁ!と、自分ながら驚いてもいます。それでは、また来年!読者の皆様が良いお年を迎えられることを祈りながら…。良いお年を!