閉門即是深山 310
菊池寛賞の制定
昭和13年(1938年)2月1日、祖父菊池寛が50歳の時に、菊池寛賞の制定を『話の屑籠』に発表した。
「本社(文藝春秋のこと)の営業はいよいよ好調なので先月號で書いた如く傷病將士の慰問をやる外、芥川賞直木賞以外に、新しい文藝賞金を制定したいと思ってゐる。これは當分『文藝春秋賞』として、僕が死んだら「菊池寛賞」とするつもりであるが、年額壹千圓とし、何う云ふ人にやるか、それはまだハッキリと定つてゐない。僕の考えでは、五十歳以上の老作家で、その年度に尤も活躍した人に贈呈したいと思ってゐる。」
翌14年の2月15日水曜日、日本文学振興会は理事会を開催して『菊池寛賞』規定と選考委員とを決定した。前年の発表の時に仲間たちが、是非菊池寛賞と貴方の名前を付けた賞に今するべきだと口説いたが「僕は、嫌だよ。自分のアイデアで賞は創ったが、自分の名前を付けるなんて」
祖父は、かなり抵抗したらしいが皆に説き伏せられて、しぶしぶ菊池寛賞という名を最初から付けたらしい。
また、発表当時“50歳以上の老作家”と書いていたものが、実際には45歳以下の文学者が選者になり、46歳以上でその年いい仕事をした人を選ぶこととなった。
昭和14年、第1回の受賞は徳田秋聲だった。選考委員は、横光利一、川端康成、尾崎士郎、小林秀雄、林房夫、堀辰雄、島木健作、中島健蔵、河上徹太郎、深田久彌、武田麟太郎、舟橋聖一、石川達三、冨澤有爲男、窪川いね子、永井龍男、齋藤龍太郎の17名であった。
選考委員会小記には「2月21日午後六時より霞ヶ関茶寮に於いて、選考委員会を開催」とある。
第2回は、武者小路實篤、里見弴、宇野浩二の三氏、第3回は、室生犀星、田中貢太郎のふたり、第4回は、久保田万太郎、長谷川時雨、中村吉蔵の3名、第5回が、佐藤春夫と上司小劍。戦前の最後、第6回が川端康成だった。
河上徹太郎は「菊池が文学を愛し、先輩を大事にしていたことがよくわかる。(戦争で)非常時となり、それに適応できない老大家へ保証金を贈ろう、という発想は菊池ならではのことではないか。」と菊池寛賞について解説している。
戦争が激化し、菊池寛賞は、休止した。再開したのは、菊池寛が昭和23年3月6日に59歳で急逝した後で、昭和28年からであった。日本文学振興会は、復活を決定したが、戦前とは賞の性格を変えて幅を広げ菊池寛が日本文化の各方面に遺した功績を記念するため、菊池の関係が深かった文学、映画、演劇、新聞、放送、雑誌・出版、及び広く文化活動一般の分野となった。七つの部門の人、又は団体が受賞対象になった。
この12月最初の金曜日に、第67回菊池寛賞の受賞式があった。平成の文学界を牽引し続けた浅田次郎氏、バレエの吉田都氏、NHK「おかあさんといっしょ」。『[証言録]海軍反省会』全11巻に結実させた戸高一成とPHP研究所、ラグビー日本代表チーム。5つの部門である。