閉門即是深山 304
猪
猪年は「猪突猛進」の年であるから、来年は何か大きな事が起こるかもしれません!
昨年の暮れ、テレビのコメンテーターがこんなことを言っていたのを思い出した。
私が20代だったから、もう50年弱前の話になる。私の勤めていた文藝春秋は、その頃「文藝春秋文化講演会」を毎年、春と秋に催していた。それは、大正12年創立当初からやっていたことで、私の祖父・菊池寛のアイデアによるものだった。
当時テレビやスマホの無かった時代だから雑誌の広告が、日本全国に行き渡らなかった。じゃあこっちから行こうじゃないかと社長自ら講師となり、芥川龍之介や久米正雄、永井龍男、直木三十五を伴って、地方巡業を行なっていた。北は北海道から南は九州まで、出来るだけ情報が行き渡らない小さな町や村に行っていたようだ。その講演会が私の入社した頃も続いていたわけである。
毎年春にも秋にも何組か組み合わせが出来る。講師は、どのチームも3名、それに役員か局長のお偉いさんが社代表としてひとり、そして随行者として若者がひとりの組み合わせであった。月曜日に出て土曜日に東京に帰ってくる。1週間の強硬軍であった。社の若者は、事業部から指名を受けると、どの部署に居ても借りだされる「忙しいから嫌です」とは言えない。私も何度も借りだされた。
そう、その50年弱前の秋だった。その年が「猪の年」だったかどうかは、忘れてしまった。確か講師の作家は、三浦朱門さん、生島治郎さん、もうひと方は『木枯らし紋次郎』の作者笹沢左保氏だったか。
各担当者がお住まいまで迎えに行って、午前中の羽田空港で集合した。行き先は、愛媛の宇和島から始められる。フライトは、午前11時前後だった。機内放送では、台風接近のため、この機は飛ぶには飛ぶが、目的地に行けないかも知れないと放送があった。案の定、大阪の伊丹空港でその飛行機は降りてしまった。西からの台風には向かえないと言う。私は、降りて直ぐにタクシー乗り場に行き、2台のタクシーに大枚を渡し、待機するように頼んでおいた。まだ、飛行機も飛ばないと決まったわけではなかった。が、直ぐに、これから先は飛べないと放送があり、多くの客がタクシー乗り場に向かった。まだ関空が無い時代である。新大阪から終点岡山、岡山から宇野まで特急に、まだ瀬戸大橋が無かったので宇高連絡船で、高松に、高松から特急で2時間かかった。6時の開演が30分は、遅れただろう。それから台風や大雪の困難な場所は、毎回、私に指名が来た。
先月経験の無い超大形台風が関東東北を襲った時、養老孟司氏の講演と私との対談で高松に居た。「往きは、良い良い!帰りは、怖い」の例え通り、帰り予定日新幹線は走らなかった。連泊した次の日、養老さんは10時10分高松駅発車の切符に切り替えていた。私は、11時10分である。
その1時間の間に高松駅で大捕り物があった。駅舎に猪が入って来たのだ!本当の話。