閉門即是深山 268
また歯が
入れ歯をはずした後に、小さなチョコレートを口に含んだ。
グラッ、前歯が動いた気がした。
子供の頃、歯科医に「君の歯は、硬くて良い歯をしているから大切にしなさいね」と言われて以来、歯には自信があった。確かに40歳くらいまでは、良い歯として自信を持っていた。祖父の菊池寛は、59歳で没しているが、家族の話を聞くと総入れ歯だったらしい。きっと40歳代か50歳くらいで総入れ歯になったに違いない。私の父も若くして総入れ歯になった。私を可愛がってくれた叔母も、いつの日か総入れ歯になっていた。それを考えてみれば、歯の弱い家系のはずだが、私は歯科医の言った言葉を何となく信じていた。
事は、私が41歳か42歳の時に起こった。働き盛りで、編集者としてもっとも忙しかった時だった。急に腹と背中が痛くなった。主治医に診せると、胆石があるらしい。胆嚢炎は、もっとも痛い病気のひとつである。「本当は、手術をして取ちゃえばいいんだけどね、君は忙しそうだから薬を使って胆石を溶かそうと思うんだ」もらった薬を1年間近く呑み続け、痛みが出れば病院に駆け込み、痛み止めを点滴しながら仕事をしていた。「行ってきま~す!」「行ってらっしゃ~い、早く帰ってくるのよ!」家の会話では無い。病院の朝の看護婦さんとのやり取りである。そんな時もあった。
結局、胆石は溶けず、手術をすることになった。いつもの病院は小さいので大手術は出来ない。紹介状をもらって大病院で手術をしたのだ。「ひと月遅れていたら死んでたかもね」執刀医に言われた。その頃からである。食事をしているとポロリと痛みも無く歯が抜ける。二日続けて抜けたこともあった。胆石が溶けず、歯が溶けだしたのだ。
今、私の歯は、下の前歯5本と上の奥歯数本と前歯2本が自分の歯で、他は、上下共に入れ歯である。赤坂のオフィスの近くに名歯科医がある。入れ歯はそこで造ったが、なかなか合わない。そもそも異物であるから、喋るには不自由する。講演も多く、編集者をリタイアした後、ひとの前で喋る仕事が多くなった。歯が無いのは、困る。しかし、どうしても入れ歯をすると滑舌が悪くなる。前歯だけを見せ、奥歯の抜けた所を聴衆に見せないようにしながら講演で喋る技術を身につけた。前歯は、ビーバーや兎のようだが、それもご愛嬌のひとつと考えながら喋り続けた。
今回、グラリときてポロリと抜けたのは、2本並んだ上の前歯のひとつだった。もはや、可愛いビーバーや兎、ご愛嬌なんて言っている場合では無い。
ど、どうしようか?ただの高齢の爺が頭を抱えている!