閉門即是深山 257
ボロ木箱 その2
菊池の家のルーツを探ると藤原氏に辿り着く。日本史の教科書で見た記憶がある名前が続く。鎌足、不比等、太政大臣良房、と続き、太政大臣兼家の子に太政大臣藤原道長、大納言藤原道綱、右大臣藤原道兼、摂政内大臣藤原道隆がいた。
その子に藤原隆家がいて、藤原隆家の四男に初めの名前を藤原基定、後に名を変えて政則とした肥前守がいた。肥前と言えば現在の佐賀県のあたりか? 肥国が前と後に分かれるが“火の国”と言われた所である。その政則の長男に則隆がいた。この藤原則隆が肥後守となる。♪肥後どこさ、熊本さ♬現在の熊本菊池市あたりに居を構えた。
このころに「藤原菊池」が生まれ、菊池となった。政則は、1009年生まれ、菊池則隆は、1029年に生まれている。藤原鎌足は、飛鳥時代西暦600年代の政治家だから400年を途中飛ばしながら書いた。菊池則隆は、鎌足から数えて藤原家14代くらいだろうか。
さて、このまま行ってもボロ木箱に辿り着けないので、ぴょ~んと飛ぶ。
頃は、太閤秀吉の時代である。室町時代から安土桃山時代1500年代となる。北条氏の家臣となった菊池武茂は、秀吉によって討たれ高野山に幽閉された北条氏直に同行した。氏直が没すると武茂は、剃髪をして京都に隠居をした。その次の代からこの流れの菊池一族は、武士を捨てて儒学者になっていくのである。
儒学は古代中国、孔子を祖として発展した哲学である。そして、中国周辺の地に朝鮮やベトナム、東アジアに儒教文化圏を形成した。朝鮮王朝の時代の支配階層の精神の支柱になったのが、儒学の中の一派である朱子学だった。朱子学は、儒学の解く教えをどう実践するかを学問の中心にしたものである。封建時代には、支配層にとって儒学、特に朱子学は相応しい学問、哲学であった。下剋上を“良し”としない哲学である為、江戸時代に官學とされたくらいであった。
剃髪をし坊さんになった武茂の子武方には、菊池耕斎と武信というふたりの息子がいた。耕斎は号を室山と名乗った。この耕斎の筋に江戸時代に有名な儒者で漢詩人の菊池五山が生まれた。江戸に出た五山は、当時の文人や知識人の為にサロンを作り、日本初のジャーナリズムの素を創ったのである。武信の筋には、儒者号の黄山、守拙、藻洲、惕所とが続く、今から300年以上前からの話である。
この惕所が私の祖父の祖父であった。今にも壊れそうなオンボロで朽ちた木箱には、黄山から始まり惕所のころまでの儒者たちの手紙や流れの巻物等々、私には判らないが、研究者たちには涎の出るような古文書類が詰め込まれていたのだ。ただの紙くずだと思った。儒学の研究者にとっては、大変なお宝だろう!金の延べ棒では無かったが、日本文化の研究の為にも、捨てなくて良かった!