閉門即是深山 222
第36回 南国忌
富岡の長昌寺の住職は、ふくよかな人だった。
長昌寺に直木三十五の甥 植村鞆音さんと到着したのが昼過ぎで、晴れて、風もなく、身体がぽかぽかする。長昌寺の門前には「直木三十五の墓」がこの境内にあることを示す石碑がある。山門をくぐると、小さいがよく手入れされた庭があった。長昌寺は、臨済宗建長寺派だそうな。
法要が終わるとお仏壇を背にするように参加者は、椅子を座り直す。そこには、講演者のためのテーブル、椅子、マイクが用意されているらしい。1年も前に、この講演会のご依頼を受けた。その電話では、聞いた覚えがあったが、何分喋ればいいのだろう。講演時間を忘れていた。境内に入ると、南国忌の事務を担当されている方が、待合室に案内してくれた。そこで、石澤住職と対面したのである。品川から長い道程である。煙草を吸う時間も場所もなかった。その待合室の玄関外に灰皿があったのが嬉しかった。が、すぐに煙草を吸いに出るわけにもいかなかった。
まず私は「私の講演時間は何分ですか?」と事務の担当者に訊ねた。今、今それを訊く!嘘でしょ?講演の内容も決まってないの?そんな無責任で、ここまで来たの?嘘~っ!嘘でしょ?嘘って言って、ねぇったら!担当者の顔には、そんな文字がいっぱい書いてあった。私は、言葉に出さず、自分の顔に、本当です、嘘ではありません!今日何分話すか忘れちゃいました!もともと講演の時、内容を決めません!お客さんの顔を見て、その日の気分で話し出すんですよ~っ!まだ、どうなるか私にも判っていませんからね~!と書いた。ところで何分の講演時間です?ふたたび担当者に声を出して訊いた。1時間半です。それが担当者の答えだった。
ゲえっ!普通は、講演の持ち時間は、45分、50分、長くて1時間である。普通より30分も長い。こりゃ、構成を考えねば自分の中で話がグチャグチャになってしまう。待合室でお茶を飲んで、ゆったり雑談している暇は無い。煙草を吸って、冷静に話を組みたてねば。
石澤住職のふくよかなお顔が目の前にあった。
これが、今まで35回こちらで講演下さった方々の奉加帳です。是非貴方もこちらに御署名を!それはぶ厚く、立派な奉加帳だった。住職の手が36年前から1頁1頁めくっていく。有名な作家たちの名前が連なっていた。私は眩暈を覚えた。とんでもない場所に来てしまった。仏壇には、直木三十五の遺影がありこちらを睨んでいる。大太鼓の音が聞こえる。太鼓の皮を止めている鋲を撥で擦る、カラカラという音と共に、ドドンドンドンという太鼓の音が腹に響く。私は何も考えられなくなった。頭の中が真っ白になった。さっき住職から頂いた直木さんが大切にしていた刀の鍔のレプリカの文鎮がポケットの中で重く感じた。