芥川龍之介と菊池寛 その2 芥川龍之介の死| 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

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芥川龍之介と菊池寛 その2 芥川龍之介の死

「文学賞の元祖」である芥川龍之介賞と直木三十五賞を昭和10年(1935年)に祖父・菊池寛が創設したとき、昭和10年『文藝春秋』の新年号に祖父は「芥川・直木賞宣言」を芥川・直木賞委員会として発表している。

芥川・直木賞宣言:一、故芥川龍之介、直木三十五両氏の名を記念する為茲に「芥川龍之介賞」並びに「直木三十五賞」を制定し、文運隆盛の一助に資することゝした。一、右に要する賞金及び費用は文藝春秋社が之を負担す。

賞の制定は、芥川が1927年(昭和2年)7月24日午前2時頃に東京府北豊島郡滝野川田端435の自宅寝室で劇薬「ベロナアル」および「ヂェアール」を多量に服用して服毒自殺をした8年後であった。1967年8月5日刊行された宇野浩二著『芥川龍之介』を読むと次のようなことだったらしい。

7月23日は、暑さが夕方までつづき8時を過ぎて、窓の外が暗くなってからも、まだ蒸し暑かった。夜中、雨の降る音を、うつつに聞いたが、寝てしまった。芥川は、その雨の降り出した頃、死ぬクスリを飲んで、永久の眠りにつく床についた。それは7月24日の午前2時頃であった。そうして、その三十分ほど前に、芥川は、伯母の寝ている枕元に来て、紙につつんだ短冊をわたしながら、「これを、明日の朝、下島さんに渡してください、先生が来た時、僕はまだ寝ているかもしれませんが、寝ていたら僕を起こさずにおいて、まだ寝ているからと云って、わたしてください、」と云った。そうして、その短冊には、「自嘲 水洟や鼻の先だけ暮れ残る」と書いてあった。死後医師の下島が芥川の寝間着のたも襟をかきあけると、左の懐から西洋封筒入りの手紙がはねて出た。それは遺書であった。

さて、医師下島は、手続きをするのにも菊池に来てもらわねばならぬ事情があったが、菊池は、雑誌『婦女界』の講演のために、水戸から宇都宮の方へまわっていた。芥川の遺書は、文子夫人、小穴隆一、菊池寛、芥川の伯父・竹内得二あての4通と、伯母のふきと甥に義敏と、別に『或旧友へ送る手記』がある。
まず、午後4時ごろ佐々木茂索と久米正雄が駆け付け、宇都宮で芥川の死を知った祖父が駆け付けたのが午後7時頃だった。祖父は、遺骸の前に長い間、だまってうつむき座っていたが、急に立ち上がって小走りに歩き出し、二階にあがると皆に目もくれず咽び泣きながら、廊下の隅の籐椅子の方へ、すごすごと歩いて行った。

27日の葬儀に、友人総代で読んだ祖父の弔辞は「芥川龍之介君よ、君が自らたくみ自ら決したる死について我等何をか云わんや。ただ、我等は君が死面に平和なる微光の漂えるを見て甚だ安心したり。友よ安らかに眠れ!君が夫人賢なれば、よく遺児を養うに堪ゆるべく、我等亦微力を致して君が眠のいやが上に安らかならん事に努むべし。ただ悲しきは君去りて、我等が身辺とみに䔥條たるを如何せん」
90年前のことである。