高松市菊池寛記念館発行『文藝もず』 | 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

閉門即是深山 168

高松市菊池寛記念館発行『文藝もず』

毎年、年に1回6月に発行される『文藝もず』という雑誌がある。発行元は、高松市菊池寛記念会館である。昨年の号は、第17号だから18年も続けてきたわけで、続けてきたそのスタッフの努力というものには感服する。今、その雑誌に頼まれて今年掲載する随筆を書いているところだ。

私が父から高松市の菊池寛記念館の名誉館長の職の席を奪ったのが、およそ10年前であった。その間父は鬼籍に入った。黙っていりゃ、私が、さも嫌々後を継いだように見えて体裁も良いが、私は父からその名誉職を奪った。名誉とは、「金」を「取らない」と同異語で、高松通いをする交通費くらいは出してもらえるが、金銭のために奪ったのではない。
早逝った私の長男との約束だった。

10年以上前、長男は元気だった。そのころ長男はタイのバンコクに住み、たまに東京の実家に帰って来た。そのころ長男は、小説を書き出し、小学館から上梓していたので駆け出しの小説家になっていた。
ある日、長男から相談を受けた。
「これから一生懸命小説を書いていくつもりだから、ある時点で高松にあるお爺ちゃんの記念館の名誉館長も務めたいと思う。でも順番というものがあるから、お祖父ちゃんに言って早くオヤジにバトンタッチをしてもらってよ。何年かオヤジが務めたらその後に僕が継ぐから」
これが彼の希望だった。菊池寛は、長男の曽祖父にあたるが、菊池家では「お爺ちゃん」と言えば菊池寛のことを指す。
私は、タイミングを見ながら父にその話を伝えた。父は、私には強く出たが、孫には弱い。すぐに名誉館長の職を自分から私に移すべく動いた。私が、高松市菊池寛記念館名誉館長職を得たのには、そのような裏話がある。
まあ、4~5年、遅くても5~6年くらいご奉仕して長男にまたバトンタッチすればいいか!そんな気楽な気持ちで私は引き受けた。その1年後、当の長男はこの世から姿を消した。結果、私は名誉館長を10年も務めることとなった。

そのころ父は、映画館の館主を勤め、大映の役員となった、倒産して大映を無くし、菊池寛の住んでいた大きな家を学生用マンションに変えて経営し、それも潰した。全てを無くした父は、高松市の記念館名誉館長を唯一の肩書としていた。それも私が奪ってしまった。あれから10年も経つ。息子は、もう一人いる。彼が受け継いでくれるまでは、頑張らねばなるまい。しかし、私も、齢には勝てない。身体がギシギシと音を発て出した。今や次男が頼りである。