閉門即是深山 161
菊池寛賞
毎年この行事は、12月の第1週の金曜日に日本文学振興会が行うので何度もこのブログに書いている。今回も書かせて頂くのをご容赦願いたい。
先週の金曜日だった。この菊池寛賞受賞式に出席するために、贈呈式の1時間以上も前に会場になっている帝国ホテルに着いた。
これには、訳がある。菊池寛賞贈呈式の後に続けて文藝春秋が日頃お世話になった方々をお招きしての忘年会があって、祖父・菊池寛のふる里 高松市の市長が呼ばれているからである。現市長も最初の頃は、わざわざ来られていたが、最近は高松市の文化を担当する部署の人たちに席を譲って、いろいろな方がみえるようになった。私が案内役になる。1時間お茶を飲みながら、いろいろとこちらの注文を聴いてもらえるチャンスでもある。
だいたい先方も飛行機か新幹線を使って1時間くらい前には到着しているから、私も受付開始の1時間前に会場近くに行くようにしている。
今回は、高松市菊池寛記念館の館長が来るという。私は、名誉館長だから館長の案内役とは、ちと変だが、まっ、どちらが偉いか判らないから務めるのに同意した。わざわざ来てくれるので、茶代は出来るだけこちらが出すようにしているが、帝国ホテルのコーヒーショップは混んでいるし、1杯1000円近くするのでなんとなく嫌である。この菊池寛賞は、以前ホテル・オークラで行われていた。芥川賞・直木賞が東京會館の耐震建て替え工事で帝国ホテルでの受賞式に変わったのと同様、オークラも工事中で、現在菊池寛賞も帝国ホテルにしている。贈呈式は5時から始まる。4時半に受付が開始になる。ホテル近くの煙草の吸える喫茶店に入った。
菊池寛賞は「芥川賞・直木賞」のようには、ひとに知られていないようなので、平成3年12月5日に株式会社文藝春秋から発行された非売品の『文藝春秋七十年史』よりその項をここに書いておこうと思う。この賞は、戦前と戦後と趣が違う。菊池寛の生前と死後と違うと言ってもいいかも知れない。祖父・菊池寛は、昭和23年3月6日に狭心症のために59歳で急逝している。
──昭和14年より、昭和19年まで──
”戦前”の菊池寛賞は、45歳以下の銓衡<せんこう>委員により46歳以上の作家に与えられる、という大変ユニークな賞で、「芥川、直木賞宣言」などという発足宣言は特にない。昭和13年3月、4月号の「話の屑籠」に、菊池寛社長のその旨の記述があるのみでスタートしている。
もっとも「日本文學振興會」としては、昭和14年2月に理事会を開催し、菊池寛賞の「内規」と「銓衡委員」を決定して正式な発足をみているが、わずか6回の寿命だった。(文藝春秋七十年史より)
因みに、昭和14年(1939年)の第1回の菊池寛賞は、徳田秋聲氏が受賞。銓衡委員は、横山利一、川端康成、尾崎士郎、小林秀雄、林 房夫、堀 辰雄、島木健作、中島健蔵、河上徹太郎、深田久彌、武田麟太郎、舟橋聖一、石川達三、冨澤有爲男、窪川いね子、永井龍男、齊藤龍太郎だった。
昭和15年第2回の受賞者は、武者小路實篤、里見 弴、宇野浩二の3名。第3回は、室生犀星、田中貢太郎の2名。第4回は、久保田万太郎、長谷川時雨、中村吉藏の3名。第5回は、佐藤春夫、上司小劍の2名。第6回が川端康成であった。この川端氏の受賞理由を河上徹太郎氏は、次のように書いている。
「菊池寛が、若いものの既成大家に對する功勞賞であると共に、顕彰賞であるといふ點で、いつも考へさせられる。成程度の實績保持者でも、こゝまで來た現在の我々の氣持とぴったりしない貧弱さを含んでゐる作家では、どうも飽き足らぬ。我々は時局と共に、老大家の作品に益々澄んだきびしさを要求する。(以下略)」
戦後、昭和28年より菊池寛賞は再開された。その趣旨は、戦前と少々替わった。
菊池寛は終戦後間もなく、昭和23年3月に亡くなった。行年60歳。
「文藝春秋」は戦後の発展期を迎え、日本文學振興會は昭和27年、菊池寛賞の復活を決定した。
菊池寛が日本文化の各方面に遺した功績を記念するため、戦前とは賞の性格を変えて幅を広げ、生前関係の深かった文学、映画、演劇、新聞、放送、雑誌、出版、及び広く文化活動一般の分野において、その年度に最も清新かつ創造的な業績をあげた人、或いは団体を対象としている。(以下略)
さて、今年の第六十四回菊池寛賞は、『水滸伝』シリーズ全51巻を17年かけて完結させた北方謙三氏、水俣病やハンセン病に関する調査報道等一貫した地域ジャーナリズムに徹した熊本日日新聞、タブーを恐れず新たな選挙報道を拓いた池上彰氏とテレビ東京選挙特番チーム、二百巻完結した『こち亀』の秋本治氏、被爆調査・研究を続け、米国大統領から抱擁を受けた森 重昭氏、リオ五輪の最終ゲームで土壇場から五連続得点の大逆転を果たしたバトミントンの高橋礼華氏・松友美佐紀氏、通称高松ペアに贈られた。
帝国ホテルの孔雀の間が贈呈式会場である。
1000人以上のお客ではなかろうか。入り口には、いろいろ記念の写真や本、その他、受賞者に因んだ品々が飾られていた。
ふと私は、偉業を遺した祖父・菊池寛のことを考えた。きっと名誉からではなかろう、こんな人たちによって確かに日本は支えられているのだと……。