南京豆| 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

閉門即是深山 158

南京豆

ピーナ~ッツ!♫
小さな舞台のシモ手から唄い出した声が聞こえる。
ピーィナァ~ッツ!♬
こんどは、カミ手の番だ。同じひとが、シモ手から急ぎ舞台裏を走りカミ手に廻ったとしか思えない。同じ声である。
私は13,4歳だったと思う。私を浅草のこの小さな劇場に連れて来てくれた姉やは、本当は国際劇場に行きたかったに違いない。国際劇場では、今ごろ大舞台で、松竹歌劇団SKDの小月冴子や南条奈美が「春のおどりは、ヨーイヤサ~♪」の掛け声のもと華麗な舞台を演じていたのかも知れない。

ここは、同じ浅草でも小学校の講堂にちょっと毛を生やしたくらいの大きさの劇場であった。板張りに油を塗ったような小さな舞台。モスグリーンのビロードの緞帳、赤・青・黄色と手まわしで変えるスポットライトは、やはりみすぼらしい。緞帳が開くと、スポットが舞台の上に廻り出す。中央ではバンド「渡辺晋とシックス・ジョーズ」が曲を奏で出す。このシックス・ジョーズは、早稲田大学専門部で1951年に結成されたバンドだ。リーダーの渡辺晋がベース、テナーサックスが松本英彦、ドラムスが南広、ピアノが中村八大と超豪華なメンバーだった。しかし、アマチュアからプロへと転向した。今この舞台に立っているのは、渡辺晋以下、サックス・松本英彦、ビブラホーン・安藤八郎、ギター・松宮庄一郎、ピアノ・山崎唯、ドラムスが猪俣猛、こんなメンバーだった。渡辺晋は渡辺美佐と結婚、渡辺プロダクションとシックス・ジョーズのバンドリーダーを兼ねていた。

ピーナ~ッツ♫、ピーィナァ~ッツ♬、チャチャチャ、チャンチャチャチャチャン!狭く小さな舞台だが、私の胸はウキウキして腰が浮いた。
The Peanut Vendorというこの曲は、ハバナ出身のモイセス・シモンが、1927年に露天商の掛け声から着想を得て作詞・作曲したものである。1928年に、リタ・モンタネルが歌いヨーロッパを中心に大ヒットをした。日本の題名は『南京豆売り』とされたはずだ。
そして、1959年にデビューしたザ・ピーナッツのテーマソングとなった。
シモ手から歌いながら舞台に出て来たのが、双子の姉でハーモニーを担当した伊藤エミ、カミ手から現れたのがメロディーを歌う妹の伊藤ユミである。ふたりとも双子ならではの同じピンクのレースパニエのドレス姿だった。

私は、その頃のザ・ピーナッツには少々詳しい。なぜならば、私が小学生時代ピーナッツの大のファンだったからで、後援会にも入っていたし、楽屋には顔パスで名前は忘れたが、この双子の付人だったデブでデカイ女性に可愛がられ、いつでもザ・ピーナッツに会えていたからだった。
ふたりは、現在の愛知県常滑市出身、名古屋育ちである。姉、本名伊藤日出代には、両目の脇にホクロがある。妹の伊藤月子は、姉に真似て付けボクロをしていた。
小学生の私がふたりに憧れを持ったのには訳がある。そのころ、父は人形町で大映直営の映画館の館主を勤めてていた。当時娯楽の少ない日本では、映画は唯一の娯楽であった。映画館は、いつも夜11時過ぎまで開かれ、土日祭日はかき入れ時でドアが閉まらないくらいに満員な状態であった。
家に帰るのは、常に深夜と決まっていたし、朝起きるのも遅い。平日も休みの日にも父と会ったことはなかった。母は、若いころ松竹の女優のニューフェースだった。そのころ日本は戦争に突入した。私が幼稚園に入るか入らないかの時に私を姉やに預けて、自分は俳優座に入った。一度スポットを浴びた者は、普通の生活に戻れない。母もご多分にもれず家庭を顧みなかった。

祖父・菊池寛の終の棲家は広い。五百坪に19部屋もある大きな洋館であった。明智小五郎と怪人二十面相の舞台になるような家である。しかし、大きな庭は荒れ放題であった。サラリーマンの父に、庭師を雇うのは無理である。部屋も使うのは、ほんのわずかで空き部屋は荒れるばかりだった。
今、家人がよく実家の母にあんなモノを作って食べさせてもらったとか、こんな料理が上手だったとか言うが、私は、何を食べて育ったか思い出せないでいる。夕方5時から始まる白黒のテレビを観ながら何かを食べ、夜9時にテレビが終わると寝る毎日だった。外国のドラマ『パパは何でも知っている』や『うちのママは世界一』で家庭の温かさを羨やんだ。『アイラブ・ルーシー』で飯を噴き出した。こんなとき一人っ子は辛い。どうせなら姉が欲しかった。ザ・ピーナッツは、私より5歳年上だった。それもいっぺんに、ふたりも姉が持てる。

舞台のふたりは『ピーナッツ・ベンダー』の次にデビュー曲『可愛い花』を、そして『情熱の花』を歌った。ソプラノ・サックス奏者のシドニー・ベケットがフランス人の妻のために創った「Petite fleur」という曲で『小さな花』とも訳されている。『情熱の花』の原曲は『エリーゼのために』を編曲したもので、カテリーナ・ヴァレンテがフランス語で歌っていたものだ。お姉さんの伊藤日出代は、沢田研二さんと結婚、ひとり男の子をもうけたが、その後に離婚、4年前に亡くなった。今年5月18日にお姉さんを追うように妹月子も鬼籍に入った。私は、勝手にふたりのお姉さんを持ち、そして、失くしてしまった。

なぜ、こんな話を書いたかと言えば、私がドラムスで所属するバンドの次の課題曲が『恋のバカンス』と『恋のフーガ』と聞かされ、私の子供時代を思い出したからだ。