儒教、儒学 | 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

閉門即是深山 147

儒教、儒学

儒教とは、三省堂の広辞林第5版935頁によれば「孔子を祖とし、仁義を根本とする政治・道徳の実践を説いた教え。長く中国の学問の中心となった。四書・五経などが経典である。その教えの要旨は、倫理を修め品性を養い、人格を育成することにつとめ、一面には礼楽刑政<れいがくけいせい>を講じて、経国済民を説いてある。わが国にも伝来して、多大の影響を与えた。儒学。」とある。
その前の頁に【儒学】とあり「(一)→じゅきょう(ニ)儒教を研究する学問。」とある。いろいろ調べてみると、孔子や孔子の政治倫理思想を継承発展させた儒家の学問らしい。孔子から孟子、荀子を経て、漢の代に中国の国教として儒教が成立されたようだ。宋の時代に朱子学として体系化されたとの説もある。
また、孔子を始祖とする思考・信仰の体系であり、紀元前の中国に興り、東アジアで2000年以上にわたって強い影響力を持った学問である。

儒教の経典は『易』『書』『詩』『礼』『楽』『春秋』の六教(六藝)である。中国の春秋時代、『詩』『書』『春秋』の三経の上に、『礼』『楽』の二経が加わり、五経となった。
『詩』『書』『礼』『楽』については「春秋を教うるに礼楽を以てし、冬夏を教うるに詩書を以てす」、『礼記・王制』における「王制に曰く、楽正、四術を崇び四教を立つ。先王の『詩』『書』『礼』『楽』に順いて以て士を造す」という記述があるそうな。例えば【礼】であれば、
子曰く、「詩に興り、礼に立ち、楽に成る。」
孔子曰く、「礼に非ざれば視ること勿かれ、礼に非ざれば聴くこと勿かれ、礼に非ざれば言うこと勿かれ、礼に非ざれば動くこと勿かれ」周礼は五礼、つまり吉礼、兇礼、賽礼、軍礼、嘉礼である。

…なんて書いてきたが、私にはさっぱり判らない。じゃぁ、なぜに誰も読んでいないような私のブログに、こんな難しいこと書くんじゃい!という声が私に聞こえる。それは、私の祖父・菊池寛の家は代々高松藩の儒官として仕える家柄で、讃岐高松藩のお殿様に「儒学」や「朱子学」をお教えする役職だったから、その血を引く私も興味を持とうとにわか勉強をしてみたのだ。が、やはり難しい。

以前読んだ浅田次郎さんの著書で新潮文庫刊の『僕は人生についてこんなふうに考える』の中に、儒教のことが判り易く書かれている。
まず、「五徳」という五つの徳目がある。「温」「良」「恭」「倹」「譲」。(中略)一方、「五常」という五つの常識がある。「仁」「義」「礼」「智」「信」。(中略)
「仁」は他者にたいする思いやり、いつくしみのことであって、(中略)かの孟子は、「仁は人の心なり、義は人の路なり」と説いた。
「仁」は人だれしもが持っている人間本来の心であり、「義」は人だれしもが歩み従うべき正道である。また、浅田さんは、別の頁では「どうやら日本は、魂までもアメリカに占領されてしまって、太古から続く儒教的モラルをすべて放棄してしまったらしい。」と現状を嘆いている。
これは、儒教の教義で、重ねて言えば儒教は、この「仁」「義」「礼」「智」「信」の五常という徳性をおしひろげ、充実させることにより「君臣」「父子」「夫婦」「朋友」「長幼」の関係を維持することを教えている。

【仁】とは、「人が二人」と書く。人はひとりでは生きていけないのだから、人を思いやる心を持つべきである。とでも言おうか。
【義】とは、利欲にとらわれないで、すべきことをする。てなことだろう。
【礼】とは、仁の具体的な行動。人間の上下関係で守るべきこと。なのだろう。「人間に上下無し」と思うのだが、子供にとって親は上だし、若者にとっては、年寄りは上で、それだけ経験を積んで生きてきたのだから敬い、尊むべきであるのは、現代でも変わらない。
【智】とは、学問に励むこと。戦争や災害で国が滅びそうになったとき、その国の大人たちに取材をすれば、異口同音に飢えよりも「子供たちの教育」「学校」「学問」を望む。人間は皆「智の大切さ」を知っている。
【信】とは、誠実であること。嘘をつかないこと。言明を違えないこと。約束を守ること。真実を告げること。こんな意味かもしれない。

こう考えてみると、「儒学」は帝王学だけとは限らない。人間が、人間である所以を教えてくれている学問である。もっともっと難しいものであろうが、「教義」だけでも納得がいく。紀元前500年ころに孔子は、この世に生き、中国の戦国時代に孔子とその弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。この学問は、朝鮮半島を渡り、日本の文化の中に溶け込んだ。なぜ私が今、このようなことを書いたのかと言えば、もう一度日本も「儒学」を見直したら良いと思ったからだ。西洋には、「旧約聖書」や「新約聖書」があり、人間の心の拠り所がある。「仁義」も知らず、「礼」を欠き、「智」を疎かにし、「信」を政治家や実業家のトップまでが疎かにして「真実を告げず、嘘が罷り通る」世の中は、私はもう「結構ケダラケ、ネコ灰だらけ!」と思ったからである。家系のルーツが儒学者の家だったが、私は、この教義の五常さえ守れなかったのではあるまいか!