閉門即是深山 143
祖父・菊池寛のルーツの旅(その三)
今、私の携帯電話のメールにNHKニュースが飛び込んできた。数年前から契約していて、NHKのテレビのテロップがメールを通して送られてくる。内容は、コンパクトにまとめられたテロップだから、新聞のヘッド・ラインのように真意が不明な場合が多い。画面には「熊本市2万5千人に避難勧告発令」とある。最近よく送られてくる類だが、避難勧告を受けた25,000人のひとをどこに避難させるのだろうか?
25,000人と言えば東京ドームの客席の半分に近い大人数である。
さて、大昔の熊本に想いを馳せてみよう。源平が対立し、ふたりの天皇候補を担いで源氏と平家という軍隊家が覇権を争うわけだが、この両軍隊、院政時代の武者は、中央の有力者に荘園を寄進して彼らの勢力の拡大を謀った。鳥羽院武者所の4代菊池経宗や5代菊池経直肥前守などは、鳥羽院武者としての記録がある。このころ菊池一族の中に在地の名をつける者たちが現れた。肥後菊池一族である。
平家によっての肥後国統制が強化されると菊池氏は平家の家人となった。私は、もともと九州や四国の海沿いに住む豪族たちの生業は海賊だったと思っている。
海賊とは、ひと聞きが悪いが、いざという時には水軍と化す。公には、水軍だが、平時には食うために特別な許可をもらって海賊を働いていたのではないだろうか。
治承4年、1180年に源頼朝が兵を挙げる。その翌年養和元年に6代菊池家当主菊池隆直が養和の乱を起こして平家に反抗した。その翌年平家の追討軍に降伏した菊池隆直は、降伏して平家の家人として源平合戦に従軍したが、壇ノ浦の戦いのとき、平家を裏切り、源氏に寝返り、源氏の御家人となった。まぁ、私も裏切りの一族の末裔だから、よく他人を裏切る。私に裏切られたひと達よ、私の裏切り癖は、一族に脈々と続く「血」だと思ってもらいたい。
まぁ、平家滅亡のぎりぎりで主君の平家を裏切り、源氏についたのだから、源頼朝だって菊池一族を100%は信用してはいなかっただろう。
時は、鎌倉時代になった。京の五条の橋の上で義経と弁慶が出会ったころ、または、頼朝に追われた弟義経が弁慶の保護のもとに岩手県の平泉・中尊寺に落ちる話、歌舞伎の『勧進帳』や『弁慶の立ち往生』の話で有名な時代だろうか。
7代目の菊池隆定は、備中水島の合戦で討ち死にしたが、第8代目当主菊池能隆は、承久の乱で後鳥羽上皇と組み、そのときの権力者北条義時によって所領を減じられてしまった。もったいない!今ごろその領地があればなぁ!
「承久の乱」とは、承久3年の6月、西暦1221年6月に平安京で起こった乱で、源氏の血筋が絶えてしまったと見た後鳥羽上皇が、時の執権北条義時を追討をしようとして始まった争いである。
源平合戦で平家を倒した源頼朝は、鎌倉幕府を開き、自ら征夷大将軍となった。その頃、後白河法皇は亡くなり、九条兼実が朝廷の中心にいた。九条兼実と源頼朝は大層親しい仲にあった。しかし、征夷大将軍に任命を受けた源頼朝は、その7年後、1199年に落馬をして亡くなってしまった。その後を継いだのが、頼朝が息子源頼家だったが、評判も悪く、失脚してしまい、1204年、叔父の北条時政の手によって暗殺されてしまう。その後を継いだのが、源実朝で、彼も1219年に頼家の子公卿により暗殺され、その公卿もまた暗殺されてしまった。これにより、ついに源氏の血筋は絶えてしまったのである。
そのころ、京都では後鳥羽上皇が朝廷の復権に躍起になっていた。幕府は、血筋を失いうろたえていた。朝廷側は、西面武士団を設置、新たな親衛隊を創ったり、鎌倉幕府寄りの九条兼実の権力を失わせたりと権謀術策の渦の中にあった。鎌倉側は、九条兼実の子でまだ幼い九条良経で、実質の権力は執権の役職であった北条義時だった。今がチャンスとばかりに、後鳥羽上皇は北条義時の討伐を企てた。これが「承久の乱」である。
突然の討伐に、北条側は驚き、慌てた。朝廷を守る側の軍が敵とされたのだから……。そこに登場したのが頼朝の妻北条政子である。政子は、源氏の御家人たちを説得し、結束を固めた。関東幕府軍もこの結束により力を強めた。そして、ひと月あまりで乱を鎮圧し、首謀者後鳥羽上皇を始め、関係した公卿たちを配流や処罰をした。後鳥羽上皇の領地なども没収し、功績のあった御家人のものとした。8代菊池隆能も後鳥羽上皇と組んだために、北条義時に所領を減じられた。
承久の乱の後、鎌倉幕府は鎮西探題を設置し、そのシステムで西国を抑えようとした。8代菊池隆能には、長男の隆泰、西郷隆政、加恵隆時、城隆経、本郷実照という5人の息子がいた。第9代目当主には長男・菊池隆泰がついた。隆泰には、武房、赤星有隆を初めとして7人の息子がいた。10代目の当主に、次男の武房がついた。鎌倉時代中期に大陸を支配していたモンゴル帝国やその属国であった高麗王国に、たびたび日本は本土を侵略されそうになった。それを元寇という。10代菊池武房はこの新たな敵「元」を相手に鎌倉幕府の命を受けて博多に一族郎党を率いて元の軍隊と交戦し、敵を打ち取った。これからが、菊池一族の面白い物語が始まるのだが、頁に限りがあるので第3話は、このへんで…。
因みに、菊池一族から出た支流、分家の苗字は、次の通り。肥後氏、豊田氏、八代氏、大河平氏、宇土氏、赤星氏、甲斐氏、米良氏、城氏、西郷氏、志岐氏の11家であり、武家である。もしかして、あなたは、私の親戚?