閉門即是深山 130
昔物語『直木賞』のひと直木三十五
と、題名を付けたが、さほど昔々ではない。大正12年、1923年9月であるから、93年前のことか。
この年の1月に祖父・菊池寛は『文藝春秋』を創刊している。そして、この話は、その年の9月のこと。そう、あの関東大震災の後の話だ。
その年、作家・直木三十五は、まだ、ペンネームを直木三十二といっていた。32歳だったのである。甥にあたる植村鞆音氏によれば、直木三十五氏は、明治24年、1891年に大阪市南区内安堂寺町通で生まれた。本名、植村宗一である。最初のころは、本名で文藝評論や小説を書いていたが、大正10年、作家の久米正雄、里見弴、吉井勇らと同人として人間社を経営し、雑誌『人間』に寄稿したときには、ペンネームを直木三十一とした。以前このブログにも書いたが、「直木」は、植村の「植」をばらし、三十一は、そのときの自分の歳をつけた。
そして、年を取るたびにペンネームを変えていくことにしたようだ。
祖父・菊池寛とは、大正9年、菊池寛、芥川龍之介、宇野浩二らと大阪に講演旅行があったときに出会ったらしい。
話をもどすと、大正12年9月1日、午前11時58分、関東地方をマグニチュード7.9の大地震が襲った。関東大地震である。
直木氏の住む麹町三番町も火災と瓦礫にの渦の中にあり、彼は、家族とともに郷里の大阪に戻った。そして、菊池寛の紹介で、出版社「プラトン社」で、雑誌『苦楽』の編集者となった。『苦楽』では、川口松太郎や画家・岩田専太郎と仕事をしていた。川口松太郎も直木とともに編集を、岩田は、挿絵を描く仕事であった。川口は、小山内薫を頼って大阪に行き、岩田は、川口松太郎を頼った。そして、プラトン社で3人は出会った。翌年は、直木はペンネームを直木三十三としている。その後、もともと、三十四は、縁起が悪いから使わないつもりでいたが、どこかの雑誌社が印刷のときに間違いを起こし「直木三十五」としたために、このへんでよかろうと思ったのか死ぬまでペンネームを直木三十五にしたという。そして、大正14年、プラトン社を退社し、3月に牧野省三らと「聯合映画藝術家協会」を設立し、映画製作に乗り出した。
プラトン社は、当時女性用の化粧品を作っていた会社で、明治になって女性たちが化粧をしだしたのを切っ掛けに大繁盛をしたらしい。その金で、文化に貢献をと雑誌作りを手掛けたのだろう。
いや、昔話がしたくてこの項を書き出したのではない。実は、先日、植村鞆音氏から電話が入り、プラトン社の創業者を祖父に持つ、中山ユカリ氏が大阪から東京にみえるので、一緒に会おうじゃないかと誘ってきたのだ。
直木三十五や川口松太郎が、このプラトン社に深く関わっていた史実は知っていたが、直木氏を祖父がその社に紹介したことを、私は、知らなかった。
考えてみれば、その当時祖父は、小説界の重鎮になっていたのだから雑誌社の社長と関係が深くても当たり前の話だが、なにか大阪との繋がりが濃いとも思えなかったし、また、プラトン社と菊池寛を繋げる資料もなかった。
鞆音氏に誘われるままに、昼飯でもと六本木近くの飯倉にあるアメリカン・クラブで待ち合わせをした。中山ユカリ氏もそこにおいでになるという。植村鞆音氏も彼女とお会いするのが初めてで、彼のお仲間たちのひとりが中山氏をよくご存知だったからと、その場が出来たという。実は、その方のご夫人がいま私が所属しドラムを叩いているバンドのボーカルをしている。不思議なご縁で、以前より逢いたい逢いたいと思っていた直木三十五氏のご親族のひとり植村鞆音(ともねさん)と出会えたのも、そのボーカルの旦那さんのおかげだった。
現在、プラトン社は、もう無い。
中山さんは、現在コスメチックの会社を経営されている。名刺には、社名と代表取締役と書かれていた。住所は、大阪とある。
食事をしながら「大阪からおこしで?」と私は彼女に訊いた。
「いえ、もうひとつ会社を持っていまして、その会社が東京で。行ったり来たりは、もう慣れました」という。なんとパワフルな女性であろうか?
廻りのテーブルは、アメリカ人女性で満席だった。さすがにアメリカン・クラブである。
「だいぶ昔ですが、シャープさん、ほら、家電メーカーの!あのシャープさんが、そう菊池さんもご存じでしょ?あそこがシャープペンシルを最初に考案したって。それで家電をやるときに、私の祖父がシャープペンシルの特許を買い取ったんです。昔は、うちの社でシャープペンを作ってたんです。今はやめましたけど。以前、その複製を作ったので、今日のお土産に!」
外は、雨だった。再会をお約束して、見送った後、むしょうにそのペンが見たくなった。複製でもお宝である。しかし、意地汚いのでそっとバッグにしまった。
アメリカン・クラブは、よく若いときに来た覚えがある。6年前に建て替えられ、建物は、私の想い出のものではない。ただ、今、玄関を出入りするアメリカ人たちの多さに、想い出の中では、驚いている。
あのころ玄関の出入りのほとんどが、進駐軍の将校の制服を着たアメリカ人とその家族だった。そして、もっと重厚な建物で、庭も広かった。今は、カード式のセキュリティーが入り口についている。