閉門即是深山 128
敵陣上陸
かなり無謀なことだったのかも知れない。
いや、とても無謀だった。情報がなかったわけではない。約ひと月前に現地に行っている。市の人々から充分な情報を得ていた。
知っていたが、承知で行かざるを得なかった。
どうも私は、子供のころから花粉症だったようである。しかし、そのころ、その時代には、花粉症という言葉はなかった。言葉は無かったが、きっと花粉症はあったと思う。
アレルギー症という言葉は、聞いていた。が、普段用いられる言葉ではなかった。禁忌な言葉では無かったはずなのに、大人たちの口からは、さほど出なかった。きっと名前だけが先行して、アレルギーがなんなのか大人たちにも解っていなかったのだろう。
私は、バスで小学校に通っていたが、家からバス停の間でよくクシャミをした。気持ちが悪くなり、足を止めて佇み、もどしそうなのを堪えた。家からバス停までの間に雑司ヶ谷墓地の鬱蒼とした森が見えた。バス停は、護国寺の森の前に立っていた。
あの気持ち悪さは、決まって1月から5月の連休まで続いた。今と同じである。あれは、たしかに花粉症の症状だった。もしかして、もしかしてであるが、私が日本で一番最初の花粉症患者だったかも知れない。
その私が、日本全国で一番といわれる杉の産地宮崎の延岡に行って来たのだ。杉という敵に包囲されることを承知で、仕事とは言え乗りこまねばならぬ。花粉症の人が日本人の46パーセント以上いると聞いたことがあるから、これを読んで頂く半分のひとには通じると思う。1月に行ったときは、打ち合わせや記者会見で、花粉症騒ぎにはまだ間があった。しかし、本番の3月は、花粉症真っ只中である。1月に延岡に行った時に、延岡の食の旨さと、ひとの良さに感心をした。そのことは、何号か前にこのブログでお伝えしているが、そのブログを読んで頂いた延岡の夕刊ディリーという新聞の記者の方が3月18日掲載の『記者手帳』という欄に書いてくださった。
全文を書くと著作権侵害になる恐れがあるので、私自身がブログに書いたり、その記者にメールをした部分だけをここに挙げてみる。
このブログに書いた部分は、こうだ。
〈延岡の印象は、とにかく食事がうまかった。地元の方に連れて行ってもらった食事処の鳥料理や馬刺し、刺身全て。その後で行った素晴らしいカウンターバーで出されたワカメの突きだしや果物のようなきんかんも、何もかもうまかった。延岡の食が、こんなにも美味しいなんて、内緒にしておきたい。私は、3月にも延岡に行ってくる〉
次に、3月に日本ペンクラブ〈平和の日〉延岡の集いが、終わった後に、その記者の方からブログに掲載されている私の文章を使用してもいいか?と、丁寧なメールを頂いた。その返事の中の文章が続いている。
〈心に残る延岡の方々のお顔に出会え、こんな仕事をしていて良かったと思っています。お別れの時、会場や駐車場で皆さん両手を振っていただきました。バスの中から出演者全員が、ありがとう!って手を振ったの見えたかな?幸せでした。バスの中の出演者の顔も本当に幸せそうでした。本当にありがとうございました。延岡の皆様にお会いできて幸せでした〉
そうです。延岡の食文化は、「天下逸品」です。また、延岡のひとたちのお人柄も「天下逸品」と言っていいでしょう。
しかし、杉も「天下逸品」! 生産量全国一位だそうです。
花粉症の私が、3月に行くのを戸惑った理由も頷いてくださるのではないでしょうか!敵陣上陸とは、けして延岡や延岡の方々のことではなく、延岡の杉のことなんです。延岡は、今日でも旭化成の工場の街といっても過言ではないでしょう。ずいぶん昔、多くの工場があったそうです。が、その工場が出す排煙によって廻りの山々の樹木が枯れてしまったそうです。早く育つ樹はなんだ?そこで、50年で成長する「杉」に白羽の矢が当たって、現在、杉の生産地第一位となったと地元の方に教えてもらいました。残念ながら「杉」は私の「敵」なのです。
今東京で、家人も友人達も花粉症だったひと達は、家からも出られない状態が続いています。今年の花粉は「ものすご~い!状態だ」とテレビなどで言っています。私は、花粉症のプロみたいなものです。もちろんひどいアレルギーの方々はいっぱいいて悩んでいらっしゃるので、簡単に「プロ」なんて言えませんが、歴史的には、相当以前から悩まされていました。
ところが、です、医学的根拠はな~んにもありませんが、症状が今年はずっと楽なのです。花粉症に悩んでいる方の前では、素振にも出せませんが、今までのようには苦しくないのです。そっとですが、私は、こう思っているのです。全国一の杉の産地延岡に行って、「杉」と友達になったのではと。もちろん、真似はしないでください。しかし、「敵」がある日急に「見方」になることは、よくあることです。食良し!人良し!そして、杉もまた良し!延岡は、私にとって全て「良し!」です。