閉門即是深山 117
ルーツ
暮れに4名の爺で飲んだ。八丁堀にある良い店でひと月前から予約が殺到しているという。すし屋だが、その前の八寸やら肴やらが旨い。もちろん上がりには、何貫かの鮨を握ってくれる。ネタも絶品だが、値段も高くはない。私は、下戸だからいってきの酒も飲めないが、3名は、よく呑む。銚子がどんどん空になっていくが、結局割り勘でもひとり8千円で済んだ。私のような下戸ならば、あの贅沢な刺身の数々でも5千円でお釣りがくるのではないだろうか?しかし、ちょっと行ってみるかというわけにはいかないのだ。L字形をしたカウンターには、席が12席くらいしかない。安くて、旨くて、ならばひと月前の予約も頷ける。
そういえば、今回の老人の集いを幹事してくれた直木三十五の甥子さん植村鞆音氏から何度も電話があったことを思い出した。彼は、大丈夫だね?を電話で連呼していたが、もしひとりでも欠けたら店に面目が立たなかったに違いない。
久しぶりに4老が出会って、乾杯をした。その中に昔の総理大臣大平正芳さんの息子さんもいた。
「菊池さんさぁ、この間あなたのルーツを覗きに熊本県菊池市に行ってきたよ、それから高松にも。高松に菊池寛通りってあるんだねぇ、菊池寛記念館に行こうと思ってたけどタクシーの運ちゃんが判らなくてあきらめて帰ってきたよ。これ、その時の土産、高い土産だったよ」
そして、白いビニールの手提げ袋を私に渡した。覗くとそこには熊本県菊池市隈府にある菊池神社社務所発行の「菊池神社の参拝のしおり・歴史館ご案内」と熊本県山鹿市菊鹿町温故創生館発行の「国史跡 鞠智城(きくちじょう)」、菊池神社社務所の絵葉書と日本大学名誉教授工学博士で藤裔会理事・菊池の会顧問菊池秀之氏が昭和63年11月22日に発表された「菊池一族史 (菊池神社系図館建設に際して)」のコピーが入っていた。
菊池神社社務所の絵葉書のケースには次のように記されていた。
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菊池神社(熊本県菊池市城山)
吉野朝の忠臣、菊池武時、武重、武光三公を主神とし、殉国の一族廿六柱を配祀する。明治天皇の思召しにより、菊池一族の本城址に御鎮座。別格官弊社に列せられた。
菊池武時公父子袖ヶ浦訣別図
後醍醐天皇の勅諚を奉じた武時公は、元弘三年(1333)北条幕府の九州探題を博多に打ち、一族憤死した。死に先だち、長子武重公に“父の志を継げ”と諭して菊池に帰らしめた。
菊池千本槍と揃い鷹の羽の家紋
建武二年(1335)武重公が箱根山の合戦に、将兵の短刀を竹の先に結びつけ、攻め寄る足利の大軍を突き上げて奇勝を得た。ここに槍を創案して刀匠延寿一門に鋳造させた。古謡に“磨きたてたる槍が五万穂”とある。
菊池武光公筑後川奮戦図
正平六年(1351)武光公は、懐良親王を奉じて筑後川に進み、六万の敵軍と対陣し、死力を尽して奮戦、これを大破し、遂に九州平定の偉勲を立てた。
菊池能運公画像
慶長八年(1603)公の百年忌に描かれた遺像。揃い鷹の羽の大紋を着け、扇の銀箔押し、衣文の彫塗りなど優れた技法を示している。重要文化財。
御松囃子能付属の能面
征西将軍宮のために演奏した六百年伝統の御松ばやし能は、申楽(さるがく)神事能の古態を今に伝える無形文化財で、これに附属した能楽の黒尉般若・小飛出・小面などの能面は古色幽玄である。
菊池一族の腹巻と鎧櫃
色々威(いろいろおどし)の腹巻と、黒漆塗りの鎧櫃(よろいびつ)とは、数百年の星霜に耐えて、よく原型を保ち、さすがに荘麗である。
蒙古襲来絵詞(部分)
文永十一年(1274)弘安四年(1281)両度の元寇(蒙古襲来)に、いち速く博多に出陣勇戦した菊池武房公が、石壘の上に家紋の旗を飜して陣を布いているところ。現在皇室御物の原本を江戸末期に写した三巻の図巻である。
附言
この絵はがきは、収蔵品の内から、菊池一族の歴史事蹟を象徴する宝物を主として収録した。文化財美術品としての選択もさることながら、むしろ菊池の歴史を顕彰しようとする本館の性格によるためである。
菊池神社社務所
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実は、たった一葉の絵葉書セットが、私の祖父菊池寛のルーツであり、私のルーツなので、敢えてそのままここに記してみた。
もうひとつここに熊本県立装飾古墳館分館歴史公園鞠智城・温故創生館発行のパンフレット『国史跡 鞠智城』なるものがある。鞠智城(きくちじょう)は、7世紀後半(約1300年前)に大和朝廷が築いた山城であったと書かれている。この鞠智もルーツである。百済や新羅、唐などの名前も出てくるが、今回は、このへんで止める。そういえば、祖父の作品に『菊池千本槍』があったことを思い出した。彼が大映の初代社長を務めたころ、この作品が映画化されたはずだ。観てみたいが……