芥川賞と直木賞 | honya.jp

閉門即是深山 115

芥川賞と直木賞

むかし、むかしの話である。しかし、大昔ではない。
明治から大正時代、昭和の初期あたりまでであろう。
当時、「文学」とは、純文学を指していた。当時の知識人やエリート、大学生たちは、本といえば「純文学」であり、小説といえば「純文学」であった。
今われわれが書店で多くみる「大衆文学」すなわちエンターテイメントなどは、彼らに、見向きもされないほどの文学だった。
大衆文学といえば彼らは、子供たちや無学のひとびとが楽しむものとして馬鹿にしていたからだ。

祖父・菊池寛は「純文学」と「大衆文学」とを次のように分けていた。
『純文学とは、自分の為に書く小説であり、大衆文学は、他人の為に書く小説である。』と。
明治21年に生まれた菊池寛の生きた道や時代には、そのような偏見が満ちていた。
菊池寛が小説を書き出した時、彼もやはり純文学を書いた。

今の教育大学は、以前東京師範と言っていた。この大学をかわきりに菊池寛は、明治大学、早稲田大学と通い、他の学生に3年遅れて待望の帝大に入学した。
帝大こと当時の東大は、一高と本科に分かれていた。一高から本科に進むのである。
彼は、一高に入学してクラスメートの芥川龍之介や久米正雄と出会った。
「芥川は、天才だ!自分は、秀才だから、天才の歩む道をけして邪魔しちゃいけないんだよ」彼の口癖であった。
芥川龍之介を「純文学」の天才と称した。
菊池寛は、さっさと大衆文学に切り替えた。そのころ書いたのが、何年か前にテレビのドラマ化になった『真珠夫人』である。
大衆たちは、自分たちを意識して書かれた文学、大衆文学を待ち望んでいた。そして、菊池寛の描く小説がバカ売れしたのだ。文壇の大御所とか文豪と呼ばれたわけである。
菊池寛は、こう思った。純文学と大衆文学どちらも作家の努力に優劣はない。同等の価値あるもののはず、と。

1935年(昭和10年)菊池寛の念願だった芥川龍之介賞と直木三十五賞が制定された。文藝春秋創立して約10年待ってのスタートだった。
「純文学」の分野に同級の友人芥川の名前を、「大衆文学」の分野に自分の親友直木三十五の名前をつけた。
芥川賞・直木賞は、無名または新進作家のなかですぐれた独創的な作品を発表した者を選び、これを世に出すために制定された新人賞であった。
菊池寛は「芥川・直木賞委員会」をつくり、昭和10年『文藝春秋』新年号に「芥川・直木賞宣言」を発表している。

芥川・直木賞宣言
一、 故芥川龍之介、直木三十五両氏の名を記念する為茲(ここ)に「芥川龍之介賞」並びに「直木三十五賞」を制定し、文運隆盛の一助に資することゝした。
一、 右に要する賞金及び費用は文藝春秋社が之を負担する。
芥川・直木賞委員会

戦後七十年近く、こんどは直木賞が隆盛であった。売れ行きの良い本は、大衆文学が勝っていた。そして、じょじょに純文学が氷河期を迎えた。今年の7月に発表された第153回芥川賞・直木賞は、大変話題となった。芥川龍之介賞に芸人又吉直樹氏の「火花」が授賞したからである。芥川賞は、もう1本「スクラップ・アンド・ビルド」を書いた羽田圭介氏もいる。直木賞は、史上初と言われた満票をとった「流」の東山彰良氏がいた。
しかし、話題は又吉直樹氏がひとりじめをした。
私は、大いに結構だと思う。
疲弊した芥川賞にふたたび興味を持って大衆は見てくれた。純文学にスポットライトが当たったのだ。又吉さんの「火花」は、300万部近く売れたらしい。この部数も純文学として最高の記録であったに違いない。
このブログを読んでいただいているころ、第154回芥川賞・直木賞の候補が新聞紙上で発表されると思う。1月にその作品は選考され、2月に受賞式となる。こんどは、どんな話題になるであろうか。

平成27年、2015年も押し詰ってきました。この一年、一度も休まずこのブログを書き続けられた事を感謝申し上げます。
老人の日々を飽きもせずお読みくださった読者の皆様、本年も大変お世話になりました。
正月は、1月8日金曜日から書き出します!
それでは、読者の皆様にとって来年も良い年でありますように!
良い正月をお迎えください!

『笑門来福』