大衆藝術 | honya.jp

閉門即是深山 90

大衆藝術

タイトルにわざわざ「芸」ではなく「藝」の字を使用したのには、訳がある。本来「芸」の字は、「ウン」と読む。最近では「藝」の略字として「芸」も認められているようだが「芸術」を素直によめば「ウンジュツ」となってしまう。それで、私は「藝」という字にこだわる。

この話とは別だが、親友から携帯にメールをもらった。
「わざわざ忙しいときに助っ人に来てくれて、それも初めての仲間たちに直ぐうち溶けて、ビートのきいたドラムを打ってくれてありがとう!皆も良い練習が出来てありがたかったと言っていたよ。僕も初めての曲なのに初見であんなキレの良い敲きに敬服したよ。また、何かのときには、頼むね!」
こんな内容が書かれていた。
ここのとこ、このブログで私のドラム話が続いているので、欠伸を漏らす読者も多いかもしれないし、「なんだまたドラム自慢か」とさっさと削除する方もいらっしゃるかもしれないが、ちょと待て、ちょと待て、お兄さん!けしてドラム自慢の話では、ございません!

先日、私の親友が組んでいるオールディーズを主として演奏しているバンドのドラム担当に不幸があった。いえ、親戚や友人や家族が亡くなったのではない。可愛がっているワンちゃんが、老衰で危篤状態に陥ったのだ。
バンドは、ライブを控えていた。8月開催のイベントに出演が決まっているらしい。後、せいぜい練習が出来ても2~3回と言っていた。その大事な練習日を1回飛ばすわけにはいかない。私もバンドを組んでいるから、そのへんはよく解る。ただ、ドラムの人の気持ちも解らないわけではない。亡くなってしまえば割り切ることも出来ようが、愛犬の危篤である。放っておくわけにもいかないだろう。ドラムは、リズムの楽器である。ドラムが居なければ、練習にならない。
そこで、急な友人の頼みに応じることにした。携帯のメールは、その御礼メールだった。
「時間さえ合えば、いつだって構わないよ!みなさんに8月のライブの日、頑張ってって伝えてね!」
そんな返信を書いて送った。

さてその後、私の頭からなかなか去らない言葉が残っていた。それは、親友からのメールにあった言葉「初めての仲間たちに直ぐうち溶けて」と「敬服した」の部分だった。
練習スタジオは、親友の三軒茶屋にある家から10分くらいの場所にあった。親友の家に立ち寄り、彼を助手席に乗せスタジオに向かった。彼は、ギターを持ち、私は小太鼓を持ち、スティックケースを背に掛けスタジオに入った。
挨拶もそこそこに練習が始まった。各パーツと人の名前は、以前親友からのメールに書かれていたが、スタジオに入れば何が何だか判らない。とりあえず練習せねばならない。曲を弾くだけで、せい一杯である。全ての曲を知っているわけでもないし、そのバンドでどんなテンポでアレンジされているかもわからないのである。練習時間3時間、途中休憩を10分程度をとったが私が煙草を吸っている間に「さぁ、始めるよ!」と声がかかった。たしかにその時、上手いこと凌いだ。
私は、その練習の時「自分だったらライブでお客の前でどう敲くだろう」と、思いながらドラムに向かっていた。

祖父の菊池寛は「純文学は、自分の為に書く小説。そして、大衆文学は、他人の為に書く小説」と明快に言っている。
音楽も表現媒体であると、私は思っている。素人である私も練習をして楽しんでいる時と、他人に聴かせる為に練習をしている時は、分けなければいけないと思っている。初めて出会った仲間であっても、自分の出演が無くても、ライブが決まっている練習は、聴いてくれる他人を意識していなければならない。
祖父の言う「大衆文学」は、現在「エンターティメント」と呼ぶ。エンターティメントは、自分が楽しむ為のものでは無く、他人を楽しませるもので無くてはならない。
文学賞で言えば、芥川龍之介賞は、純文学に与えられる賞である。また、直木三十五賞は、今風に言えば、エンターティメント、昔の言葉を使えば大衆文学に与えられる賞である。
私たちのやる音楽なんて「藝術」とは、ほど遠い。せいぜい「藝能」の世界であろう。その中にも入れてもらえないかも知れないのだが……。

 

さて、私の机の上に先日初めてお会いした直木三十五さんの甥御さん植村鞆音さんからご贈呈いただいた氏の著書『直木三十五伝』と、お会いした席にいらして我々の話を聞かれ御自身が大切に持っていた宇野浩二著『芥川龍之介』の二冊の本が置いてある。席にいらしたNさんが大切にされていた本を私に下さったのだ。この二冊を読めば、祖父が何故に両賞を創設したか、祖父の心の中を観ることが出来るような気がする。読んで、咀嚼出来れば、またこのブログで書くことも出来ると思う。

そろそろ、この7月半ばには、次の芥川龍之介賞と直木三十五賞の候補者が発表される。今年はこの両賞、どなたが手にすることが出来ようか?
楽しみである。