閉門即是深山 86
祖父の友人
「菊池はね、あの敷石を綺麗に拭っておき、離れと書斎との往来は跣足<はだし>でしていました」
「竹垂るる 窓の穴べに君ならぬ 菊池ひろしを見たるわびしさ」
この二通は、関東大地震の直後、芥川龍之介が金沢に帰っていた室生犀星に送った手紙の一部である。大正12年9月1日午前11時58分関東地方は、マグネチュード7.9という大地震に襲われた。詩人で作家の室生犀星は、震災を逃れて郷里の金沢に移住するまで、元市外田端523にあった瀟洒な家に住んでいたようである。その家は、犀星の趣味で造られ風雅な庭があり、茶室もあった。
祖父・菊池寛は、28歳で京大を卒業。翌年に結婚をし、現在でいえば青山6丁目から西麻布のあたり、麻布笠笄町にあった画家の家の二階を借りて新婚生活をスタートさせた。その後文京区水道や新宿区榎町、文京区小石川に移り、現在の文京区千石、当時の小石川区林町で『文藝春秋』を創刊した。
1年も経たずに林町から文京区本駒込5丁目、当時の本郷区駒込神明町317番地に移り、ここで関東大震災に遭遇している。
たぶん、この神明町の家主の親戚か知人が震災で家を無くすかしたのではあるまいか。神明町の家主から直ぐにでも出て行って欲しいと言われた祖父は、2ヶ月後に、室生犀星の住んでいた屋敷を借りて引っ越しをしている。
この田端の町には、自笑軒という料亭があった。芥川龍之介が塚本文子さんと結婚をしたとき、田端の芥川の自宅に近い白梅園で結婚式をあげ、この自笑軒で披露宴をおこなっている。
「佳人獲て 春待つ君が 書斎かな」
は、祖父が結婚した友人芥川にそのとき詠んだ句である。
この料亭自笑軒は、当時新潮社の「創作合評会」もおこなわれていたから、文化人の溜まり場であったに違いない。
現在で言えば、JR田端駅北口から不忍通りに向かうとすぐ左に芥川の住んでいた家があった。その先をしばらく歩き左に折れると自笑軒である。
駅前の道の左側には、画家の岩田専太郎の家もあった。
右手には、室生犀星が住んで祖父が3ヶ月だけ住んだ家があり、また、祖父の友人でもある川口松太郎や林芙美子、小林秀雄、堀辰雄、竹久夢二、陶芸家の濱田庄司、作家の直木三十五の家もあった。この当時、田端は文士村であった。
たぶんだが、室生犀星の家が空くことを伝えたのは芥川龍之介だったのだろう。
菊池と室生を引き合わせた芥川は、東京の家を心配しているであろう室生犀星に冒頭にあげたような手紙で状況を伝えていたのかも知れない。
菊池ひろしは、キミの家で庭を跣足で歩いているよ。とか、キミの趣のある書斎を覗けばキミじゃなく菊池が居るじゃないか、がっかりだよ。とか。
祖父の代表する友人を挙げれば、祖父が創設した文学賞通り、芥川龍之介と直木三十五となるであろう。
芥川さんにはお孫さんがあってお会いしたことはないが、おひとりは芥川耿子さんという方がいらっしゃることは、知っていた。
ところが、直木三十五さんのご遺族がどこにいらっしゃるか今までまったく判らなかった。もちろん直木三十五は、ペンネームで本当の名字は植村さんという。植村の「植」をバラして直木としたそうな。
先日、葉山でのライブの話を書いた。一年前に知り合ったバンド仲間の中に直木さんと私を繋いでくださった方がいたのだ。祖父のした仕事の中で、芥川龍之介賞と直木三十五賞を知っている人は多い。上記したように芥川氏のことを知っている人たちは、沢山いるだろう。祖父にとっては、芥川龍之介は、親友で作家としてのライバルで、大学時代に作家デビューした芥川さんを祖父は苦しみつつ一歩一歩作家の道を歩みつつ、嫉妬していたのではないだろうか?夏目漱石を後ろ盾にし颯爽とデビューした天才のイケメン作家を嫉妬するのは、人情であろう。
天才が故に、当時は文学といえば純文学の時代、その道を芥川に譲って自分は大衆小説に向かった祖父は、そこに素晴らしい友人と出くわした。それが直木三十五さんだった。祖父は、友人直木さんを使って、純文学と大衆文学の価値を並ばせたのではないか?自分が進んだ大衆小説の世界を持ち上げようとしたに違いない。私は、死ぬ前にお会いしたい方が何人もいるが、そのおひとりが直木さんのご遺族だった。そして、仲間が取り持ってくれて直木さんの甥Tさんにお目にかかれた。どのようなタイミングで祖父と直木さんが出会ったのかを私は知らなかった。彼に訊いてみた。
「それはね、菊池寛や芥川龍之介が文化講演会に大阪に行ったときに伯父と会ったようですよ、そう聞いています」
写真で見た直木三十五さんそっくりのイケメンのお顔がそう答えてくれた。
長年の私の疑問のひとつが解消された。
これから、ゆっくりと時間をかけてTさんに話を訊きたいと思う。
その都度、このブログで報告したいと思うが、ただ書ける内容だけですよ!
また、芥川賞と直木賞の季節がやってくる。