閉門即是深山 84
大学
私にも年に数回講演のご依頼がある。
だいたいご依頼のテーマは決まっていて、文学についてか、祖父菊池寛の話をせよというのが多い。まっ、それ以外のテーマを望まれても困るわけだけれど。
講演は、慣れてしまえば1時間でも1時間半でも喋ることは出来る。まずそれ以上話をせよという講演会は、なかなか無い。
重要なのは、お客様のお歳が幾つくらいか、またどんな話を期待しているか。それを知っておけば内容はさておき、楽しんで帰って頂ける。私は、いい加減な奴、適当な奴と言われて育ってきたから、「いい加減」や「適当」と言われても嫌な気持ちにはならない。いい加減は、「良い加減」と思うようにしている。「良い湯加減だな~ぁ」「良い塩加減で旨いね」ぐらいに思っているし、適当は「的を得てる!」というくらいにポジティブに考えている。
今まで話させて頂いた講演会の何人かの主催者からは、おべんちゃらも含めて「面白かった、楽しかったよ!」と言われているから、そうそうまずくは無かったと思う。ある編集者仲間が主催している講演会に呼ばれて話し終わったとき、彼から「まるで講談だね、講釈師みたいで面白かったよ」と言われた。私は、この言葉は信じた。彼は、常日頃口が悪い奴だから、たぶん酷いことでも言われるだろうと私は身構えていたのだ。
確かに、私の話は講談のようなものである。「講釈師、見て来たような嘘を言い」“いい加減”“適当”と言われ続けたご褒美であろう。楽しんで帰って頂くことを主眼において話を作っていれば、それらしくなる。ただ、困ることがある。
大学で授業として講師をしてくれ!とのお誘いのときだ。若者と出会え、祖父のこと、本のこと、ジャーナリズムやメディアのことなどお伝えするのは楽しい。
しかし、授業である。笑わして帰せば良いということでは無い。
この5月の連休を挟んで2回、専修大学で講義をすることになった。私が所属している日本P.E.N.クラブからのご依頼である。4名くらいの講師が2回ずつ講演する。ことテーマは「言葉とメディア」だった。
私は「言葉」と「メディア」に分けて話をした。
1回目は、まず新約聖書のヨハネによる福音書から入った。福音書の第一章である。
『初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。
この言葉は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言葉に命があった。そしてこの命は人の光であった。』云々。
聖書の有名な一文である。
私は、旧約聖書から新約聖書、愛から新世紀エヴァンゲリオンまでの話しをした。最近でも、イエス・キリストやモーセの出身地エジプトの映画は多く制作されている。
世界の現代の事件や紛争は、このへんの知識を必要とされる。
なぜキリスト教の神とアッラーの神が同じなのか、旧約聖書に出てくる75歳の羊飼いアブラハムとその妻サライの逸話を知らなければ理解出来まい。アラブとユダヤの関係を知らなければ、現実社会の現象は理解の外になってしまう。
講義終了後の学生諸氏の小論文を読ませてもらったが、今まで学んでこなかったことがよくわかる。学生諸氏は、新聞や本を読む意味を理解してくれたらしい。
2回目の授業は「メディアについて」。
私の祖父・菊池寛は、文藝春秋を創立させ芥川賞や直木賞を創設し、映画大映の初代社長までやった。大映は、昭和40年代に倒産したが、その後徳間書店が経営し、現在では角川書店が運営する角川映画になっている。
祖父の生い立ちを1時間半も喋れば、それは「メディア論」になる。
この日も講義後、小論文が提出され140名に近い学生諸氏の意見を読むことが出来た。その中の1枚に目が止まった。
私の講義の前日の何かの授業に菊池寛の話しが出たらしい。
小論文には、ある授業で「菊池寛の戦争に関わる負の面を」と書かれていた。
想像するに祖父は戦後連合軍によって公職追放、いわゆるパージを受けたことを指した話だったと思われる。
たしかに、祖父はパージを受けた。が、戦争賛成論者ではなかった。日本が戦争に突入するまで、彼は文藝春秋や講演会を使って「戦争反対!」を叫んでいた。しかし、軍部は、戦争に入っていった。やり始めたなら仕方が無い!なら「勝て!」。彼の現実主義は、彼にそう言わしめた。日本は、それまで負け戦を知らなかった。負ければ、ユダヤのように国も無くなり、住む場所も無くなると思ったかも知れない。「戦争反対!」と「やってしまったなら勝たねば!」は、矛盾していない。彼は、子供のころ、大学生のころ、そして社会人になっても不条理に生きた。彼の小説のテーマは、全て「不条理の解明」だったと私は思っている。『父帰る』も『恩讐の彼方に』も『忠直卿行状記』も短編『笑い』や『身投げ救助業』『入れ札』『屋上の狂人』も。彼は、戦後昭和21年1月GHQからパージを受けた。これは、彼にとって最大の不条理であったに違いない。パージを受けたまま、彼は昭和23年3月この世を去った。無念だったろう!