閉門即是深山 59
「菊池寛賞」について
もしもし、○○さんでいらっしゃいますか?私は、日本文学振興会の××でございます!
こう築地にある料亭『新喜楽』の厨房の裏で黒い電話器にむかって話すと、決まって受話器から受賞者の廻りを囲んで今か今かと待っていただろうギャラリーの声が聞こえてくる。「○○さん、おめでとう!」「良かったね!」「本当に良かったね~ぇ!苦節○年ダネェ!」と。
もしもし、今、芥川賞の選考会が終わりまして、第○回芥川賞が○○さんの作品『△△△』に決定いたしました。お受け頂けますでしょうか?はい、つきましては、本日の×時より東京會舘の○階で記者発表を行いますので、有楽町の東京會舘まで、おこし願いませんでしょうか?
だいたい直木三十五賞より芥川龍之介賞の方が決まる時間が早い。この電話をかけた後に、私は、直木賞の決定を待ち、今度は、直木賞受賞者に同じような電話をする。
候補者がどこでこの電話をお待ちになるか前もって打ち合わせをしておくから、留守ということはない。受賞者のみ日本文学振興会と名乗ることに決まっているから、こちらからの第一声で受賞されたか否かが判る仕掛けになっている。一方、落選のお知らせは編集担当者がすることになっている。
文藝春秋が刊行した『文藝春秋の八十五周年』を読むと宇野浩二氏が月刊文藝春秋昭和30年11月号の随筆『思ひ出すままに』で、次の文章を書いていた。
「芥川賞と直木賞といへば、思ひ出したことがある。それは昭和十三年であつたか十四年であつたか。ある夜、菊池が、数人の友人を呼んで(私もその時よばれた、)『芥川賞と直木賞は、たとひ文藝春秋社がなくなっても、これだけは、存続したい、それで、この「賞」だけをつかさどるものを造りたい、』といふ意味のことを云つた。これが日本文学振興会である。その席で、誰であつたかが、芥川賞と直木賞のほかに、たしか、五十歳を越した作家に、前年にすぐれた作品を発表した人を選んで、菊池寛賞とでもいふのを設けては、と主張した。それがほぼ極まりかかつたところで、菊池が、ときどきそんな顔をする、いかにもキマリのわるさうな顔をして、『僕の名を使ふのは……』と云つた。が、その席にゐた多く人たちが主張して、菊池寛賞が設定されたのであつた」
祖父菊池寛の生前、1939年から1944年の間に菊池寛賞は、6回受賞者を出している。そして、戦争を挟んで中止されたが、1953年から再開された。
現在、日本文学振興会は、芥川賞、直木賞と、この時に決まった菊池寛賞、そのほかに大宅壮一ノンフィクション賞、松本清張賞を取り仕切っている。
どの賞も、上記したような受賞者の反応だが、菊池寛賞は、少々違う。まず、電話をかけるまでは同じだが、受賞者の反応が、違うのだ。キョトンとされる。
ほとんどの方が、菊池寛賞を知らないのだろう。「えっ、なっ、何?」という感じである。
菊池寛賞は、祖父が急逝した前後で多少のニュアンスが変わった。生きている折は、宇野氏の随筆通りだが、死後は「菊池寛がやってきたことを記念する」という意味がプラスされたのだ。
菊池寛は、若いころ純文学を志し、途中でエンターティメント作家となった。作家として売れっ子になる前は、新聞記者をしていた。文豪といわれるようになった後に現毎日新聞の顧問を勤めていたし、文藝春秋を通して文壇ジャーナリズムの旗を上げた。菊池寛が映画の大映の初代社長であった事を覚えているひとは、あまりいないのではないか。作家たちの為の互助会として日本文藝家協会の初代会長にもなっている。また、学生時代にある事件で東大を辞め、京大に移った。そのとき出会った上田敏教授のもとでの勉学は、戯曲であった。その勉学から出来た作品が『父帰る』や『入れ札』などである。
1953年から再開された菊池寛賞は「文学・演劇・映画・新聞・放送・雑誌・出版および広く文化活動において創造的な業績」を上げられた団体・個人に授与することになった。
先日、フジテレビの「アンビリバボー』という番組を観ていた。番組表には「実録あなたは殺してない!!日本最大のマル秘スクープ」とある。
弘前大学教授夫人殺しが冤罪であったという衝撃は、私の心にも残っている。その番組は、弘前冤罪事件で報道の力を持って14年目に再審まで漕ぎつけたドキュメントを放映していたのだ。根気良く冤罪を信じて報道をした読売新聞記者・井上安正氏は、昭和50年にその功労を称えられて第25回菊池寛賞を受賞している。その番組の中で次のようなコメントが流れていた。「新聞記者にとって最高の栄誉である菊池寛賞を井上さんは、受賞した!」と。
今年、第62回の菊池寛賞は、「週刊文春」の連載対談が1千回を達成した阿川佐和子さん、朗読劇「百物語」を99話まで続けた白石加代子さん、「老いてさまよう」の毎日新聞取材班と「認知症行方不明者1万人~知られざる徘徊の実態~」のNHKスペシャル、そして、テレビ番組の「顔」として、日本の笑いを革新したタレントのタモリさん、日本人初の国際宇宙ステーション船長・若田光一さん。
その4人の方と2団体に菊池寛賞が決まったことが10月16日の新聞朝刊紙上で発表されていた。受賞式は、毎年12月の最初の金曜日である。