「むかし」について | honya.jp

閉門即是深山 56

「むかし」について

「たしかここは炭屋だったな」
声に出したかどうかわからない。

昭和の20年の中ごろの話なのである。あのころここには、昭和初期にでも建てられたような粗末な家があった。扉も無く、八畳ほどの土間の上に多くの煉炭や炭団が入っている箱がぞんざいに積み上げられていて、足の踏み場も無かった。子供たちの遊び場になっていた細い路地のT字路の角にたしかこの炭屋は、あった。一日に何べんも、この炭屋を横目で見ながら私はその前を走り抜けた記憶がある。今は、トタンとスレートで、家のように見えるからきっと昔のいつか、建て直したのかも知れない。合板製の安っぽい破れ戸に打ちつけられたブリキの大きな看板に赤地に白抜きで「火気厳禁」と書かれていて、軒下に立てかけられた錆びたリアカーがある。ずいぶん昔にここが炭屋だったという証だろうか。炭屋だった家を右手に見て、細い道を進んでみた。銅に緑青のふいた屋根が門の上にあるのは、大層なお屋敷の跡なのかも知れないが、家は戦後の東京でよく見かけられたくすんだ茶色の様式だった。このあたりは、私が幼稚園のころ近所の子らと駆け遊んだ場所で、隅から隅まで知っているはずである。この道を20メートルも進めば、祖父 菊池寛のころの文化人 三角寛の家の裏木戸にぶつかる。私の祖父が急逝したとき、鎌倉などから慌てて駆けつけた文士たちが泊めてもらった家だった。今は、お嬢さんが『寛』という料亭を経営している。三角寛が亡くなられた家をまんま黒く改築した家は、今東京で見ることの出来なくなった風情ある料亭に改まった。雑司が谷の『寛』という屋号だけなので、これが菊池寛の終の住まいと思っている人も多いはずだ。

狭い路地を炭屋まで戻った。私のクルマは、大通りの60分パーキングに停めてある。時計を見たが、まだ15分も経っていない。7月に亡くなった叔母の残した少量のものを、昔、実家であった今マンションになっている建物のトランクルームにしまって、つい懐かしさのあまり、近所をブラついてみたのだ。あと45分、駐車料金がモッタイナイ。私は、ケチなのだ。今度は、子供のころ、今で言えばストーカーをしたことのある家まで行ってみることにした。小学生のころ私は、九段下にある小学校に越境していた。その帰りのバスで見染めた女の子である。彼女は、年下らしい小学生で可愛い娘だった。と言っても顔も思い出せないし、今もそこに住んでいても60歳半ばであろうか。別に逢いたいわけではなかった。「そんなことも、あったっけなぁ!」というくらいである。残念なことに、か、あたりまえなのか、彼女の家のあった辺りには、近代的な家に塗り替えられていた。名前も知らないし、うろ覚えでしかない家が、60年経った今、わかるはずもない。大きな台風が東京を襲った翌日の空は、私をホッとさせた。青空と秋の風が、私を“今は昔の世界”に連れてきてくれたのだろう。柔らかい秋の陽光に背中を押されて、自分の育った戦後の東京の小さな町に迷いこんでしまったようだ。ストーカーと言っても、その娘の後を2、3度しか付いて行ってなかったから、全てがうろ覚えでしかなかった。

今来た狭い路地を引き返し、子供のころ遊んでもらったお兄ちゃんの家やお医者さんごっこをした女の子の家がある路地に入った。お兄ちゃんは、いつも「少年探偵団」の小林少年の役で、年下の餓鬼どもはお兄ちゃんが指揮をとる少年探偵団の一員だった。もちろん怪人二十面相も明智小五郎もいない。私の患者さんの女の子の家も今風のアパートに変身していた。女の子が、今の変身した私に会ってもわからないだろう。お兄ちゃんの家は、昔のまま有った。が、人の住んでいる気配は、ない。
そうだ、セイちゃんだ!お姉ちゃんは、マサ子さんて言ったな。細長い二軒長屋の裏路地の突き当りに、見慣れた井戸があった。今は、釣瓶がはずされ、ポンプらしい機械が取り付けられている。あのころ、よくこの井戸で冷やされた西瓜を、ご相伴になった。表札も、やっと読める字だったが、変わりはなかった。すっかり私は、あのころに戻っていた。幼稚園か小学校の低学年か。

さて、30分が経っていた。今度は、いつこの町に戻ってこられるだろうと思いながら、今はもう私の実家では無くなったマンションの裏手に出た。そこには、老人たちの集団がいた。15、6名だろうか。老人たちの文学散歩であるらしい。初老の男が老人たちに何か説明をしている。私も老人の中にまぎれこんだ。「ここは、今マンションになっていますが元は作家菊池寛の家でした。作家としては、あまり有名ではありませんが、商才に長けていたので、芥川賞や直木賞を創設したり、文藝春秋をつくったりした作家です。若いときは、両刀使いで、年をとって女ったらしになりました」聴き入る老人たちから、下世話な笑いがおこった。話は、あまりにも違う。たぶん区役所などを退職してのボランティアの初老男だろうが、得たりと言う顔をしている。私は、飛びかかろうとする自分を抑えるのに必死だった。祖父は、苦労して小説家になった。文豪と言われてから、その金で、若い小説家を育てるために両賞や、文藝春秋を創った。祖父は、顔が醜かったコンプレックスを抱えていたので、女性を遠ざけた。ねぇ、オッサン!人さまを誑<たぶら>かせて何が面白い!人の前で話すときは、噂ばなしじゃぁ無くて、少々勉強して話せ!中央公論文庫にオレが書いた『菊池寛急逝の夜』という資料があるぞ!白水社だって『菊池寛と大映』を出版してくれている。井上ひさしの、松本清張の、読んだら、そんな滅茶苦茶な話は、言えんだろうが、なぁ、おい、この初老オッサンの元小官僚めが!