神田山の上駿河台 | honya.jp

閉門即是深山 31

神田山の上駿河台

そこに着いたのは、集合時間の少し前、朝の8時半だった。
運良く1台分の駐車スペースが空いていた。
5階建てのそのビルは、私が長く組合員になっている出版健康保険の会舘で白いビルである。隣には、日本雑誌広告協会のビルがある。神田駿河台である。
50歩も歩けば明治大学や山の上ホテルがある。今日は、年に一度ある年寄りのための健康診断の日だった。

健診の部屋は5階にある。1階には薬局があり、2階は、総務や組合員が使える保養所を管理する部署。3階は、外科以外の病院が全て揃っている。私は、出版健保の組合に入っているんですよ、と言うと知っている人たちは「いいねぇ、あそこが持っている保養所は、良い旅館やホテル並みに素晴らしいし安いと聞いていますよ」と溜息混じりに言う。
私はいつも出版業界に入って一番良かったのは、この組合に入れたことだと思っている。しかし、現役時代は忙しすぎて、この保養所を一度も使ったことはなかった。重ねがさね残念に思うが、歳をとって各々の保養所に行ってみたが、やはり年寄りの宿泊客がほとんどだった。

さて、受付を済ませ、懐に忍ばせた中が見えないビニールの袋を箱に入れ、置いてある着替えを持ってロッカーに入る。今は、ビニール入りだが、私の子供のころは、マッチ箱に入れて学校まで持って行った記憶がある。
日本式のトイレであの作業をどうやってしたのだろう。
順番の席は、27番だった。私の前に26名の人たちが来ていたのだ。若い番号の人たちは、6時台にでも家を出たのだろうか。
9時、「時間になりました、お名前ではなく席順にお呼びしますので言われた部屋の前でお待ち下さい!」看護婦のような女性がマイクを持って言う。
1番、2番は、10番の部屋で採血してください! 3番、11番の方は、1番の部屋で血圧と聴力の検査で~す! コンピューターを見ながら全員を囚人のようにさばく看護婦さんのような人は、見惚れるばかりの素晴らしいさばき方をする。機械仕掛けのディストリビューターのようだ。コンピューターの一部になっているようだった。そして、名前を失って番号で呼ばれる私たち健診される年寄りたちは、正に囚人だった。
まだ、私が呼ばれるには少し間があった。

このビルの50歩先には、文壇で有名なHILLTOP「山の上ホテル」がある。若いころによく通ったホテルだった。
昭和11年に建てられた本館は、アメリカの建築家が石炭商で明治大学のOB佐藤慶太郎氏の依頼で設計した建物だ。当時は「佐藤振興生活館」といったそうだ。そして、戦後、進駐軍GHQに接収された。今はもう無いが、赤坂の山王ホテルや千鳥ヶ淵にあったフェアモントホテルも進駐軍将校たちの宿舎として接収されていた。
山の上ホテルは接収後、実業家・吉田俊男氏が買い取り、ホテルにした。開業は、1954年、昭和29年だった。神田の丘の上にあったからだろう、その建物は、GHQ時代にHILLTOPの愛称で呼ばれていた。吉田さんは、そのまま「山の上ホテル」と名付けた。吉田さんの生前、ご夫妻に私は可愛がって頂いた想い出がある。また、私の家人が画家なので、客室用にと20点近く絵を買って頂いた記憶がある。
このホテルの近くは、書店街で出版社も多かった。出版関係の密集地帯と言ってもいい。多くの作家たちが、缶詰にされていた。
三島由紀夫、壇一雄、川端康成、豪勢な文壇人である。
私は、30代のころ池波正太郎の『鬼平犯科帳』の担当編集者だった。池波さんも、この山の上ホテルをこよなく愛した作家のひとりだった。
特に、珈琲パーラー「ヒルトップ」が好きだった。そのパーラーの従業員も池波さんになつき、池波さんも彼らを可愛がっていた。そのころは、私もよく通っていた。
伊集院静氏もこのホテルを愛しているひとりだ。氏のご自宅は仙台にある。そして、事務所は東京にある。東京に居るときは、伊集院さんの家は、山の上ホテルになるのだ。ゴルフに行くとき、私は会社のハイヤーを使い山の上ホテルで伊集院さんをピックアップし、『新宿鮫』の著者大沢在昌さんを六本木の仕事部屋で拾い、ゴルフ場に向かったものだった。伊集院静さんと打ち合わせをするときは、ホテルの中にある「てんぷら 山の上」をよく使っていた。

27番の方ぁ~、9番の部屋で眼圧の検査で~す!
そろそろ私の番が廻ってきた。囚人のように番号で呼ばれるのは、個人情報保護法の賜物であろうか。そう言えば小保方女史の記者会見で記者が「第三者が同じSTAP細胞の実験をして成功したと言われましたが、その方のお名前を聞かせてください」と問うたのに対して女史は「このような公の場所では…」としどろもどろに答えていた。次の朝の新聞には「回答に疑いが残る」と書かれていたが…。これも個人情報保護法の賜物と言える。
27番の方ぁ~! 次は3番の部屋で心電図で~す!
もの想いに耽っているわけにもいかない。私は27番の席を立って、3番の部屋に向かった。