閉門即是深山 17
新年に着いた葉書
少し遅れて一通の年賀状が届いた。
「新年のごあいさつ ありがとうございました。」
との書き出しであるから、まぁ、年賀状の一種といってもよいだろう。
宝くじ付きの年賀はがきではない。
40円だったころの官制はがきに10円切手が足され貼られている。
『菊池様、新年のごあいさつ ありがとうございました。
父は2013年8月に他界しましたので、父に代わり菊池様のご多幸を願う次第です。
今ごろ父は御父上様とあちらの世界で再会して「来たよ」「早かったね」などと話しているかもしれませんね。』
2014年1月2日付けで、「父の代わり」とあるのでお嬢さまからだろう。女性名だった。きっと、私と同世代の方に違いない。
東北を襲った大震災の年の6月に私の父は、逝った。
その父の大親友だったA氏に、私は、年賀状を昨年暮れに出した。この葉書は、その返事だった。
父の親友は、父が逝く6時間前まで父が寝ている病院のベッドのそばに付き添って、返事も出来ない父に「ヒイちゃん、ヒイちゃん!」と声をかけ続けてくれていた。「ヒイちゃん、明日も来るゾ!頑張れ!」これが2人の最後の会話となった。それまでも、ほとんど毎日、Aさんは、父を見舞ってくれた。帰り際には「ヒイちゃん、明日も来るゾ!」とかならずいってくれていた。父は、嬉しそうに彼に向かって両手を合わせていた。Aさんは、大学時代の父の友人で、同じドイツ語を選択していたらしい。歳をとっていきながら、よくふたりはドイツ料理屋に連れ立っては若き日の想い出を話していたようだ。
Aさんと父は、ほとんど歳は変わらなかったと思う。ならば、昨年逝かれたAさんは、88~9歳くらいであったに違いない。
その父の大親友Aさんが、昨年8月に亡くなっていたのだ。
2011年6月に、父が逝った後も心配で、私は、Aさんの家によく電話を入れて「元気ですか?」などご様子伺いをしていた。Aさんが父を見舞ってくれるとき、私が運転する車で、Aさんのお宅に近い四谷三丁目の丸正本店というスーパーの前までよくいき、ピックアップしていた。
思い出せば、昨年も同じようなことがおこった。父の兄のような存在で、三菱商事の会長をされていた諸橋晋六氏が亡くなったときだった。ご家族の方からお手紙が届き、年賀状で住所がわかったので手紙を書いたとあり、亡くなったことが書かれてあった。
諸橋さんのお父様は、大漢和辞典の編者である諸橋轍次<もろはしてつじ>氏である。
私の著書『菊池寛急逝の夜』(中公文庫)にも書いたが、私の祖父・菊池寛の住んでいた家の三軒隣に諸橋家はあった。戦前の話しである。
菊池寛先生は「この路地で一番偉い人は、シンちゃんのお父さん。その次に偉いのは僕」といっていたよ、と諸橋晋六さん、シンちゃんは、以前、私に教えてくれたことがあった。
Aさんも諸橋晋六さんも、父が居なくなった今、私にとって大切なひとたちだったが、揃って昨年亡くなってしまった。
3年前、2011年、父が亡くなった歳は、87歳だった。Aさんは、88~9歳、そして、晋六おじさんは、90歳で亡くなられた。
ふと、最近読んだ五木寛之氏の著書『新老人の思想』(幻冬新書)を思い出した。有史以来の超老人大国ニッポンの話だ。「高齢者層」ではない、「老人階級」であると説く五木さんが“新老人”がどう考えたらよいか、人間の「生」と「死」の「考えるヒント」をくれた本だ。この本に関しては、後日このブログで書こうと思っている。
このデジタルブック『ジレ!』のホームページの西村対談のテーマも同じなのだから…。
今、このホームページにSF作家瀬名秀明氏と西村さんとの対談が掲載されている。電子書籍で紙の本のように読めると聞いている。ぜひ面白いから、読んで欲しいと思っている。
ついでに、私の宣伝も書いておこうと思う。何日かは訊かなかったが、確か1月15日前後の発売だっただろうか。もう少し後かも知れないが、月刊文藝春秋の臨時増刊『第150回芥川・直木賞記念』号に小文を書いた。買って読んでみてください!