閉門即是深山 11
寒い風の中で
私は「しまった!」と、思った。
思ったよりも寒かったのだ。せっかく1番に並んだのだから、歩いて自宅まで5分とかからない道をコートひとつ取りに帰るのももったいない。
私は、この近所にある病院に毎月1度通っている。オープンまで40分はあるが、私の後ろには、もう4、5人のひとたちが並んでいた。40分と書いたが、看護婦さんの配慮か、毎日予定の時間より10分前には開門してくれる。その日は、急に寒くなった日だった。そして、風もあり、よけい冷たい空気を運んでくる。日は照っているが、手はかじかんでいた。
前日、なんとはなしに買ったカシミヤのマフラーをしてきて助かった気がする。
10年近く前だったら、カシミヤ100%のマフラーは、2万円くらい払わねば買えなかったろう。今は、その10分の1で手に入れることができる。もちろん、有名なブランドのタッグなどはない。しかし、100%のカシミヤは、間違い無くカシミヤである。
もう何年経つだろうか。直木賞作家故生島治郎さんと大沢在昌さんとイギリスに取材に行ったことがある。カシミヤメーカーで有名なライル&スコット社の社長に昼食の招待を受けた。カシミヤのセーターに鷲のマークを付けたそのころ有名だった会社である。
「うちの社のカシミヤセーターが10万円以上もして価格が高いのはね、全部真っ白なカシミヤからとる毛を使っているからでしてね、ふつうは、白の毛はあまりないんです。それをそれぞれの色に染めるのだから贅沢なものですよ。カシミヤもピン・キリでもともとグレーっぽい安い素材に色をつけたものが多いんです。そんなのは、うちのに比べうんと安い。それをまた市場で高く売っている店があるんだね。消費者にはわからないんだよ」社長は、英語で早口に喋った。もちろん、通訳を通して聞いた話だった。
カシミヤは、温かく、肌触りが良い。めずらしい白の毛じゃなくても私は良い。
ユニクロで売る2,990円の100%のカシミヤマフラーで充分である。
その日、寒さが特に身に浸みたのは、朝食を抜きにして来たからだった。高血圧症、血圧を下げる薬をもらうためだ。しかし、毎月一度薬をもらうために診断も受けなければならない。いつも、薬の処方箋だけくれりゃあ良いものをと思っているが、そうもいかないらしい。病院で検査を受けて、処方箋をもらい、隣の処方薬局に行って毎月薬をもらっている。
病院では、女医さんがコンピュータとにらめっこ、「最近はどうですか~っ?」と同じことを繰り返す。「上が120くらい、下が70前後で~す!」と毎月くりかえす。「良いですね~っ!」と女医さんの声。測ってみましょね、といってあのしゅぽしゅぽとカメラのレンズを掃除するようなゴムの袋でしゅぽしゅぽ!「あら、上が112、良いでしゅね~!」なにが良くて、なにが悪いのか、さっぱりわからない。「先月来られたときに言いましたが、今日は血液検査もしましょうね~っ!」2~3ヶ月おきにこの病院で私は、血を抜かれている。吸血鬼に襲われているようにだ。いつ襲われるか判らないから、毎回朝食を摂って行く。「朝食は摂られましたか?」いつも看護婦さんから訊かれ「はい」と答えていた。「どのくらい前に朝食を摂られましたか?」と訊かれると、常に迷う。だって歩いて5分のところに家があるんだもの。食べて直ぐに出てくるんだもの。30分前。本当のことをいえばいいのだが、どうも30分前とは言いづらい。つい嘘をつく。「2時間前くらいかな~っ!」嘘だから語尾が小さくなる。
「2時間前ならば大丈夫でしょう!検査しましょう!」と吸血鬼たちは、私の腕をゴムの中部で逃げないように縛るのだが、ついに私の長期に渡る嘘がばれたらしい!
前回のとき、女医さんに「次の検査のとき、血を吸いますから、かならず朝食を抜いて来てください!」といわれた。「血糖値が少し高いので、調べてみないとね!」とも。けっ、血糖値? とっ、糖尿病?
私は、高血圧症と糖尿病と比べて、糖尿病の方が偉いと勝手に考えている。病気にもランクがあって、偉い、偉くないがある。偉くない病気の患者は、偉い病気を持つ患者に道を譲らければならないとも思っている。となりのブログで書いている校條剛くんは、自分が糖尿病で、ブログのテーマも糖尿病についてだと聞いている。それも月に1回の更新だ。それは、彼が私より偉い病気の持ち主で、たかが高血圧症の私は、毎週ブログを更新しても追い付かないくらいの高身のひとだからと尊敬もしている。自分が糖尿病になれば、彼の地位に並ぶことができる。彼は、その病の先輩だが、私も今までのように卑屈にならなくても済む。
だから、朝食抜きで、寒い中、一番に並び、糖尿病であるかないかの検査に来たのだ。女医さんからは、吸血の、いや採血の後、検査の結果は来月来られたときにお知らせしますからね!と、いわれた。私は、胸をわくわくさせながら100%のカシミヤの安いマフラーを首に巻き、隣にある薬局の扉を開いた。